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歴史

#87 正体不明の疫病に昔の人々はどう立ち向かったのか?

中国武漢から発生し、日本を巻き込んで世界中で猛威を奮う新型コロナウイルス(COVID19)。2020年にWHO(世界保健機関)のテドロス事務局長が「パンデミック(世界的流行)を宣言し、いまだなお、感染拡大が衰える気配は見えません。

 

このウイルスが恐ろしいのは何なのでしょうか。「新型だから」「変異を繰り返すから」・・・未知の感染症は、どのように拡がっていくのか、病原体はどのような性質を持っているかといった”正体”が見えないため恐怖感をより一層増幅させるのです。

 

私たちが住む日本列島は、歴史上繰り返し流行病に襲われてきました。古代から中世・近世までの日本人は、正体不明で治療が困難な疫病を、目に見えない存在がもたらすものだと信じてきました。その原因であるもののけや怨霊、悪鬼を除くため、神仏に祈りをささげてきた先人たちはどうしてきたのでしょうか?

 

近世以前の日本を襲った感染症で、死亡率が高く、流行すると多くの人々が命を失うことで恐れられたのは、天然痘と麻疹(はしか)です。

 

このうち天然痘が最初に日本で大流行したのは、天平7年(735年)の初夏で、九州の太宰府を中心に北九州で猛威を振るいました。

 

「続日本紀(しょくにほんぎ)」の天平7年5月23日付の勅に、「災異が頻々(ひんぴん)と起こっているが、これは天地からの咎(とがめ)の徴(しるし)で、…施政者としての責めは予(われ)にある」と、時の聖武天皇は自責の念を抱いたのです。

 

そこで天皇は、災害を消除し、国家を安寧ならしめるため、宮中と大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺で、「大般若経」の転読(経典の一部を読んで全巻を読誦したものとすること)法要が行わせました。

 

その後も天皇は、疫病のため太宰府で多くの死亡者が出ていることを聞き及び、神に御幣を捧げて祈祷し、京の寺や諸国の寺々に「金剛般若経」を読ませました。

 

さらに太宰府に使者を遣わし、疫病に罹った人々に稲穀や布、綿、塩などを支給し、薬を与えるように命を下したのです。聖武は、未知の感染症の流行を食い止めるため仏にすがるとともに、現実的な施策も実行しました。

 

天平15年10月15日(743年)、聖武天皇は近江国紫香楽宮で「大仏造立の詔」を発しました。この発願を天然痘大流行と結びつける説もあり、近年も天変・事変が重なると「大仏建立」が取り沙汰される、今回も「大仏建立アプリ」が開発され、人気を集めているようです。

 

天平時代の天然痘がどこからもたらされたのかについては、朝鮮半島と中国の二つの説があります。

 

天平9年1月(737年3月)、遣新羅使(朝鮮半島南東部の新羅国への使節)の帰朝報告によると、大使の阿倍継麻呂は帰路、対馬で病死し、副使の大伴三中に病気が伝染して同行できなかったといいます。その大伴三中は病が治癒して、朝廷に帰国を報告しましたが、その時、100人を越えていた一行が、40人に減っていたのです。

 

彼らが朝廷に参内した直後、天然痘は平城京中に広まり、最高権力者である藤原房前が死亡したのをはじめ、房前の3人の兄弟など、太政官8人のうち5人が次々と死亡し、藤原政権が倒れる事態までに発展していきました。

 

また聖武天皇が諸国の寺院に「般若経」を転読させた天平7年の流行の際には、入唐から帰国した吉備真備、玄昉ら、遣唐使・遣唐留学生らが、中国から持ち込んだのではないかと疑われました。

 

流行病の猛威を抑えるため、日本の国家がたびたびおこなった対処法は、元号を改めることでした。

 

天然痘の流行によるものだけで、天暦(947)、長徳(995)、永久(1113)、大治(1126)、応保(1161)、長寛(1163)、安元(1175)、治承(1177)、建永(1206)、承元(1207)、嘉禄(1225)、嘉禎(1235)、乾元(1302)、弘和(1381)、享徳(1452)の改元が、いわゆる「災異改元」なのです。

 

正暦6年(995年)2月22日、全国的な天然痘(裳瘡。もかさ)の流行により、「長徳」に改元されました。その前年、天然痘は平安京に侵入し、鴨川や都大路には埋葬しきれない庶民の遺体が放置されたといいます。年が改まると大内裏の官人(役人)たちも感染し、公家たちにも拡がっていきました。

 

長徳に改元とされても流行は収束せず、関白に就任して12日しか経たない藤原道兼も死亡し、その後も五位以上の官人のうち69人が死亡し、六位以下の官人・僧侶で死亡したものは数え切れないほどだったといいます。

 

天治3年(1126年)1月22日、天然痘の流行により「大治」に改元されました。前年の冬から天然痘が流行し、若死にするものが多く出たためです。朝廷では前年末、内裏の諸門で疫病などを追い払う「鬼気祭」をおこなったが効果はなかったのです。

 

天然痘(痘瘡)は海外からもたらされる脅威だという見方は近世まで続きました。

 

元禄時代の医学書『小児養育しらぎ草』には「住吉大明神を痘瘡神としてまつるべし」と記されています。これは、痘瘡は新羅からくる病だから、三韓を降伏した住吉大明神をまつることで病魔に勝つ、という信心だったことを示します。

 

幕末には痘瘡除けの錦絵がもてはやされ、痘瘡神を退治したと伝承される鎮西八郎為朝が好んで描かれました。

 

疱瘡神をまつる「疱瘡祭」もさかんにおこなわれ、下野(栃木県)では疱瘡祭に供える疱瘡餅を惜しんで減らしたり、餅つきのとき賑やかに騒がなかったりすると病人は死亡するといわれ、疱瘡祭では4本の柱を庭に立て、帷幕をめぐらし、数十人の男女がはやしたてながら餅をつき、赤色の御幣で飾った神棚に供えました。

 

子どもが痘瘡に罹ったときにも赤い幔幕を部屋はり、身の回りはすべて赤色のものだけを使い、肌着は紅紬、紅木綿でつくり、12日間取り替えませんでした。患者だけでなく、看病人も赤い衣を揃って着ました。

 

なぜ赤色が選ばれたかについては、痘瘡の色を赤いとみなしたためですが、赤色は魔除けの色だという原始的・古代的観念に由来するものだと考えられていたようです。

 

天然痘とともに恐れられた麻疹(はしか)も、日本人とは長きわたる交渉史があります。

 

『日本紀略』によると長徳4年(998年)7月に、感染症が流行したという記録があり、この病気は「稲目瘡(いなめがさ)」や「赤疱瘡(あかもがさ)」と呼ばれ、「世の中でこの病気から免れている人はいない」と記されています。

 

『栄花物語』にも、「今年例の裳瘡(もがさ。天然痘)にはあらで、いと赤き瘡(かさぶた)の細かなるいできて」とあり、大流行したこの感染症がはしかだったことがわかります。

 

はしかの民間療法に、伊勢えび、干し柿、金柑などを飲ませるということがありましたが、これは早く真っ赤になり、発疹を出しきれば安全だという迷信によるものでした。

 

江戸時代の文久2年(1862年)、麻疹が大流行した際には、その予防法や摂生の仕方を描いた「はしか絵」が100種類以上出版され、そこには、麻疹にかかっても軽くすむまじないや、食べてもよいものと悪いものが記されています。

 

“食べてもよいもの”は、人参・大根・さつまいも・びわなどの野菜・果物から、どじょう・あわび・しじみ・わかめなどの海産物、麦・小豆・砂糖などの穀物・調味料、みそづけ・たくあんなどの加工食品と、幅広い食材が挙げられます。

 

“食べてはいけないもの”では、ほうれん草・ねぎ・牛蒡・里芋・椎茸・梅干しなど、栄養がありそうなもののほか、「辛き物」や「油濃き物一切」が挙げられていることから、比較的刺激の強い食べ物が避けられていたようです。

 

こうした食べ物が麻疹に効いたり、悪化させたりという風説は決して科学的ではないものの、感染症状に向き合う庶民の切実さの表れとみるべきかもしれません。

 

感染症が発生すると神仏に祈願し、改元し、病原菌を避けるため、衣食住にも気を配りました。こういった行動を陋習や迷信と呼ぶだけではすまされないのかもしれません。

 

私たちも今、昔の人たちのように、未知の病との遭遇に右往左往するばかりです。しかし、私たちは過去を振り返ってみると、そこには「乗り越えてきた歴史」が存在しています。その歴史が私たちに訴えかけるのは、「必ずや乗り越えられる」ということなのではないでしょうか・・・

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