「そして男は時計を捨てた・・・」にようこそ!

このブログサイトは、みなさんの知識や情報、その他のことを入手するお手伝いをするブログサイトです。

テ-マを設けずに、さまざまな事柄を書いていきます。ごくまれに私的なことも織り混ぜていこうと思います。

ぜひ、このブログを活用していただけたら、うれしく思います。ただし、このブログには画像は一切ありません。文章のみのミニマムなブログになっています。文章のみでみなさんに伝えていきます。

毎日1~2記事を更新していきます。土、日は更新は多めとなります。

「そして男は時計を捨てた・・・」を今後も末長くご愛読ください😉




世界

1918年の教訓を正しく生かすことが出来たなら・・・

新型コロナウイルス感染症は依然として収まる気配がなく、日本でも再び緊急事態宣言が発出されました。感染力が高い変異株が次々と報告され、今後何が起きるかはまったくの不透明です。これまでの対応は成功しているのか、それとも失敗なのか、そして、その理由はどこにあるのかを評価するのはまだ難しいと思います・・・

 

しかし、参考になる事例はあるのです。近代史上最悪のパンデミックとなったインフルエンザ、いわゆる「スペイン風邪」です。

 

その大流行は1918年から2年ほど続きました。その時、アメリカの各地で講じられたスペイン風邪の感染防止対策とその結末とはどういうものだったのでしょうか?

 

スペイン風邪の症例がアメリカで最初に報告されたのは1918年3月、場所はカンザス州の陸軍基地でした。ここから第一波が始まったのですが、致死率は低く、夏までにいったん収束するのです。

 

しかし、第二波はまったく異なる様相を呈します。第二波からインフルエンザはアメリカ全土に拡大していき、50万人以上が犠牲となってしまいます。

 

その致死率は10倍に高まり、主に15歳から35歳の健康な若者たちが亡くなってしまったのです。パンデミックが終わるまでに、世界では5000万人が亡くなったといわれています。

 

その非常に危険なウイルスがアメリカで本格的に拡大し始めたのは1918年の秋のことでした。例えば、アメリカのフィラデルフィア市で最初の症例が確認されたのは1918年9月17日のことです。

 

翌日、市はウイルスのまん延を防ぐため、人前で「咳をする」「つばを吐く」「鼻をかむ」などの行為をやめるキャンペーンを立ち上げます。しかしその11日後、市は戦勝パレードを決行し、20万人が参加したのです。感染症の流行は目前と予想していたにもかかわらずにです。

 

その間にも患者は増え続けていき、最初の症例からわずか2週間で、感染者は少なくとも2万人にのぼっていきました。学校、教会、劇場、集会所などを閉鎖し、市がようやく「社会的距離戦略」を実施したのは10月3日のことです。しかし、その時点で市の医療はすでに崩壊してしまっていたのです・・・

 

フィラデルフィアで感染者が確認されてからほどなく、ミズーリ州セントルイス市でも10月3日に最初の感染が見つかりました。

 

こちらでは、市の対応は素早かったのです。2日後にはほとんどの集会を禁じ、患者の自宅隔離を決断します。その結果、感染の速度は急激に下がり、セントルイスでの死亡率(単位人口あたりの死者数)はフィラデルフィアの半分以下となったのです。

 

第二波からの最初の半年間、すなわち感染が最も深刻だった時期において、ウイルスによる死亡者数がフィラデルフィアでは人口10万人当たり748人と推定されるのに対し、セントルイスでは358人でした。

 

しかし、この50年間で人々の生活は劇的に変化していき、パンデミックの抑制はより難しくなっています。

 

グローバル化、都市化、大都市の人口密集などが進んだために、ウイルスが数時間で全土に広がりうる一方で、実際のところは、その対抗手段は昔とほとんど変わっていません。

 

ワクチンのない伝染病に対する防御の第一線は、現在でも公衆衛生的な介入であって、具体的には学校、商店、飲食店の閉鎖、移動制限、社会的距離の確保の義務化、集会の禁止などがそれに当てはまります。

 

もちろん、そのような命令に市民を無理に従わせるのは、また別の問題です。1918年にはサンフランシスコの保健衛生官が、義務付けられていたマスクの着用を拒んだ市民3人を銃で撃つ事件も発生しています。アリゾナ州では、警察が感染予防用品を身に着けていない逮捕者に対して10ドルの罰金を課しました。

 

しかし、最も成果を上げたのはやはり思い切った、かつ徹底的な対策です。集会を固く禁じ、厳しく取り締まったセントルイス、サンフランシスコ、ミルウォーキー、カンザスシティーでは、結果的に感染率が30から50パーセントも低下したのです。また、最初に強制隔離と時差出勤を実施したニューヨーク市では、死亡率が東海岸で最も低かったのです。

 

2007年、学術誌「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」に、市によって異なる対応が病気の蔓延にどのように影響したかを調べた2つの論文が発表されています。

 

それによれば、致死率、時期、公衆衛生的介入について比較したところ、早い段階で予防措置を講じた市では、対策が遅れ、あるいはまったく講じられなかった市と比べて、死亡率が約50パーセントも低いことがわかったのです。

 

なかでも最も効果的だった措置は、学校、教会、劇場を同時に閉鎖し、集会を禁止することでした。そうすることでワクチンを開発する時間を稼ぎ、医療機関にかかる負担は減っていたのです。

 

論文はまた、別の重要な結論も導き出しています。介入を緩和する時期が早すぎると、状況が逆戻りしてしまうということです。

 

例えばセントルイス市では、死亡率の低下を受けて大胆にも集会の制限を解除した結果、2カ月もたたないうちに集団発生が始まってしまい、新たな症例が相次ぎました。介入を継続した市は、セントルイス市などで見られたような2回目の死亡率のピークが見られなかったのです。

 

1918年のインフルエンザにおいて、死亡率の急上昇を防ぐ鍵は「社会的距離」戦略であったと同論文は評価しています。約100年を経た今現在、新型コロナウイルスとの闘いでも、「密」の回避を含めて同じことが当てはまる可能性は高いのです。

 

スペイン風邪で主に犠牲となった人々は健康な若い大人たちでした。これは医学史上、最も大きな謎の一つとされているのです。

 

この謎について、2014年に学術誌「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」に興味深い研究結果が発表されています。1889年以前に生まれた高齢者は、ある程度の免疫を備えていたおかげで、死亡率が低かったというものです。

 

この研究に携わった科学者たちは、スペイン風邪のウイルスの型がどう進化したかに着目しました。

 

1830年まで遡り、優勢なインフルエンザ型の移り変わりを明らかにしたところ、1889年にスペイン風邪とは、別型の通称アジア風邪が世界中で流行したことで、当時の子どもたちがスペイン風邪に似たH1N1型を経験していないことに気づいたのです。

 

つまり彼らはスペイン風邪に対する免疫を獲得していなかったのです。そして、1900年以降にはまたスペインかぜに似たH1亜型が流行し、それ以降に生まれた子どもたちには部分的な免疫が出来たといいます。

 

「史上最悪のインフルエンザのパンデミックで罹患者が最も多かった高齢者は、基本的にほとんどが生き残った」と、研究を主導した米アリゾナ大学の生物学者マイケル・ウォロビー氏は述べています。

 

その一方で、18~29歳の年齢層では大量の死者が出て、罹患者が200人に1人の割合で亡くなりました。

 

子どもの時にウイルスに接しなかった世代の大人たちの死亡率が高かったというこの発見は、おそらく将来のパンデミックの予防や、ワクチンの接種法に役立てられる可能性があります。

 

現在のように流行が予想されるウイルスに対してワクチンを接種するのではなく、子どもの頃に免疫を獲得できなかった株に対してワクチン接種を行う手もあるのかもしれません。

 

有益な歴史的データという宝の山を現在の行動に生かす取り組みは、今ようやく始まったばかりなのでしょう。

 

1918年の教訓を正しく生かすことが出来れば、私たちは今後、新しいウイルスに遭遇しても、同じ過ちを二度と繰り返さないための一助になるかもしれません・・・

Amazon.co.jp 送料無料の情報が満載!ネットで買うなら楽天市場 おうち時間が増えた時期、家電を求める方も増えてきます。Gshopperは今の時期に2021年家電大特価キャンペーンを実施し始めています。コスパ最強の掃除機から、健康観測できるXiaomiスマートバンドまで、毎日に使える商品を最大68%OFFで提供しております。是非チェックしてください!