「そして男は時計を捨てた・・・」にようこそ!

このブログサイトは、みなさんの知識や情報、その他のことを入手するお手伝いをするブログサイトです。

テ-マを設けずに、さまざまな事柄を書いていきます。ごくまれに私的なことも織り混ぜていこうと思います。

ぜひ、このブログを活用していただけたら、うれしく思います。ただし、このブログには画像は一切ありません。文章のみのミニマムなブログになっています。文章のみでみなさんに伝えていきます。

毎日1~2記事を更新していきます。土、日は更新は多めとなります。

「そして男は時計を捨てた・・・」を今後も末長くご愛読ください😉




歴史

「日本で初めて大抜擢をされた男」 その名は聖徳太子!

現代を生きる私たちの多くは、なんらかの組織に属し、組織人として生きています😢。そして、組織のなかで生きる以上、「人事」は無視できないものです。もちろん、「人事」が重要なのは現代に限ったことではありません。

 

私たちの祖先・・・そう、私たちの祖先が難局に直面したとき、それを打開するために、いったいどのようにして人材の発掘や登用を行ったのでしょうか?また、政府などの組織をより強力かつ円滑に運営・維持するために、勤務評定や昇進のシステムにどのような創意や工夫を加えてきたのでしょうか?

 

さらに、「人事」をめぐって形成される派閥には、時代や集団によってどのような違いや特徴があったのでしょうか?

 

これはもう、???の嵐😅

 

最初に取り上げなければならないのは、やはり何といっても聖徳太子です👍。なぜなら彼こそはわが国における「異例の抜擢」の確実な最初の例だからなのです。

 

後に聖徳太子と呼ばれることになる厩戸皇子が歴史に登場するくだりに関して、『日本書紀』は次のように述べています。

 

「厩戸豊聡耳皇子を立てて、皇太子とす。仍りて録摂政らしむ。万機を以て悉く委ぬ。」

 

これは、西暦592年12月、わが国最初の女帝である推古天皇(額田部皇女)が即位した翌年4月の出来事とされています。

 

この記述から、厩戸は実の叔母にあたる推古女帝の「皇太子」とされ、同時に政治を総裁する「摂政」に就任したのだといわれてきました。

 

しかし、「皇太子」(唯一の皇位継承予定者)という地位が正式に成立したのは、実はこれよりも約100年後のことです。厩戸の時代には、大王(天皇は当時まだこのように呼ばれていた)の候補者はたいてい複数名いたのであり、厩戸も有力な大王候補の1人にすぎなかったのです。

 

また、「録摂政らしむ」という記述から、当時すでに「摂政」という公的なポストが存在したかのように受け取られてきました。しかし、この個所は単に「政を録摂させた」と述べているのです。「録摂」には「まとめる」「統括する」の意味がありました。後に藤原氏が独占した、天皇権力を代行する摂政という地位とはおよそ無関係です。

 

厩戸が抜擢された地位が何であったかという問題以外にも、『日本書紀』の記述には疑問が残ります。それは、推古女帝の即位とともに厩戸が抜擢されたかのように記している点です。もしそれが事実であるならば、574年生まれの厩戸皇子は当時数え年で20歳です。この若さで、本当に国政に関与することができたのでしょうか?

 

確かに厩戸の血筋は抜群でした。彼は、6世紀前半に即位して32年も在位した偉大な大王、欽明天皇の孫であり、欽明の息子、用明天皇の皇子でした。

 

それだけではありません。厩戸の両親はともに母親が蘇我稲目の娘であり、彼は蘇我氏の一員といってもよい存在でした。蘇我氏は6世紀前半に稲目によって興された新しい氏族でしたが、その族長は大臣(今日の総理大臣に相当する)として、当時の宮廷で最大の実力を誇っていました。

 

しかし、当時はたとえ血統がよかったとしても、また能力・資質に申し分がなかったとしても、それだけでは大王はおろか大王候補にもなれない時代でした。政治上の経験の有無だけでなく、人格的な成熟度や年齢などが厳しく問題とされたのです。ある天皇の直系の血筋を引く者ならば、幼少であっても、また人格や資質に多少問題があったとしても、即位することができた後の時代とは大きな違いが存在していました。

 

年齢という点でいえば、この前後の時代は、大体30歳くらいにならないと、政治的にも人格的にも成熟しているとは見なされなかったようです。この前後の大王や天皇のうち年齢のわかる例について、即位した年の平均値を調べてみると、大体30歳前後になるといいます。

 

したがって、弱冠20歳の厩戸がどんなに血筋がよかろうと、能力・資質にめぐまれていようと、彼が593年段階で大抜擢を受け国政に加わったとは考えがたいのです。

 

では、彼が実際に国政に参画したのは、いったいいつのことだったのでしょうか?

 

そのヒントも『日本書紀』に隠されています。『日本書紀』を見ると、厩戸は601年2月から斑鳩宮の造営を始め、605年10月にはこの宮殿に移っています。このとき、彼はすでに32歳です。

 

斑鳩宮というのは厩戸の住まいであり、同時に彼が所有する膨大な財産を管理・運営する機関(いわゆる家政機関)の所在地でもありました。それは、現在の奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺の東院(夢殿を中心とした一画)の周辺にあったことが発掘の結果わかっています。

 

王族であれば誰でも、このような宮殿を営むことができたかといえば、決してそうではありませんでした。王族のなかで政治的にも王位継承のうえでも有力な存在と目されていた、同じ母から生まれた兄弟のうち最年長の男子(大兄皇子)だけが、基本的には斑鳩宮のような宮殿を営むことが認められていたのです。

 

このように、600年を過ぎ、厩戸が30歳くらいになった頃、彼の地位や身分に大きな変動があったことは明らかです。厩戸が国政に抜擢されたのは、まさにこの頃と見るのが妥当でしょう。彼はいわば壮年に達し、有力な王位継承候補ということで、推古と大臣の蘇我馬子(稲目の息子)を中核とする国政に正式に加わることになったと見られています。

 

ところで、このように、有力な大王候補の王族が国政の中枢に入るということが、これ以前からあったかといえば、どうやら、そうではなかったのです。厩戸抜擢の背景には、わが国最初の女帝、推古の登場という出来事があったようです。つまり、推古女帝の登場なくして、厩戸の抜擢もありえなかったといえます。

 

推古は、夫である敏達天皇のキサキ(当時は漢字で大后と表記された。後の皇后に当たる)の地位にありました。キサキといえば、大王の単なる正妻と思われがちですが、当時はそうではありませんでした。それは、大王の政治をサポートする公的ポスト。推古は他ならぬそのキサキとして政治的な経験と実績を積み上げ、それが大いに評価されて、敏達没後に即位することになったわけです。

 

今でも女帝は「中継ぎ」にすぎないといわれることが多いのですが、それは誤りです。その登場自体が、実は能力重視の抜擢の結果だったからです。

 

そうなると、こんどは女帝を補佐する、かつてのキサキの役割を果たす人物が必要となります。政治的な実力を買われて大王になった推古が、みずからのサポート役として抜擢したのが彼女の甥、厩戸皇子でした。

 

女帝の政治を輔佐するには、血筋よりも何よりも、あくまで実力が重視されたのですから、このとき厩戸が起用されたのは、彼がそれだけの評価に値する人物だったからにほかなりません。彼の知られざる20代は、このような評価を準備する充実した研鑽の日々だったのでしょう。

 

ところで、厩戸はいったいどのような役割を期待され、「入閣」することになったのでしょうか?

 

これに関しては、彼が国政に参画するようになったのを機に、斑鳩の地に宮殿の造営を開始していることが手がかりになりそうです👍

 

推古女帝や大臣の馬子が本居を構えていた飛鳥(現・奈良県高市郡明日香村)やその周辺と異なり、斑鳩は当時の国際玄関口である難波の地と大和川や竜田道でつながっていました。斑鳩は難波を介し中国や朝鮮半島と直結していたといえます。

 

厩戸が入閣とともに、官邸とも言うべき宮殿を飛鳥周辺ではなく斑鳩の地に造営したということは、彼に期待された役割がズバリ外交だったことを物語っています。

 

冠位十二階や憲法十七条は、昔から厩戸が制定したといわれてきましたが、その証拠はありません。むしろ彼は推古・馬子を中軸とする政権に外務大臣として「入閣」したと見られます。斑鳩宮はいわば、外相官邸だったのです。

 

厩戸が外相に就任したのは、中国を中心とした東アジア情勢が大きく動き始める時期に当たりました。

 

6世紀末期、およそ300年近く分裂状態にあった中国にようやく統一政権が誕生しました。これが楊氏が興した隋帝国です。隋の皇帝をはじめ、中国歴代の皇帝たちは天の命令(いわゆる天命)を受けて全世界を支配する絶対的存在と自任していました。なので、隋の出現によって周辺諸国とくに朝鮮半島の3国(高句麗・百済・新羅)はそれへの対応を迫られ、緊張が一挙にみなぎったのです。

 

わが外相厩戸は、朝鮮3国の為政者たちと同様、隋を中心とした東アジア世界のなかで自国をどのように位置づけ、自国の権益をどのように拡大・強化するか、という課題に取り組んだのです。

 

それは具体的には、朝鮮半島南部、新羅と百済に東西から挟まれて存在した伽耶(現・韓国の慶尚南道)問題でした。伽耶は小国の寄せ集まりで、6世紀の半ば過ぎ、ついに新羅に併合されてしまいます。倭国(日本の国号は未成立)はこの伽耶の一国、任那国(金官国ともいう)に自国の権益があるとかねてより主張していました。

 

だから倭国は、伽耶を併合した新羅に対し、伽耶にある自国の権益を引き続き保障せよとの外交的要求を突き付けたのです。こうして新羅が、倭国に不承不承差し出したのが「任那の調」です。それは、かつて任那国から大王に献上された品々(特産物)でした。

 

ところが、その後、新羅は次第に「任那の調」の献上を怠るようになります。倭国はそれに対し、時に軍事的な威嚇や実際の出兵などの手段に訴えましたが、なかなか功を奏さなかったのです。厩戸外相も当初は軍事力に訴える旧来の方式を採用しましたが、さすが大抜擢を受けた逸材だけあって、やがて発想を大転換するに至ります。

 

それは、新羅をはじめとした朝鮮3国がすでに従属し、朝貢していた超大国の隋に働きかけ、倭国が新羅の上位にあることを認めさせるというものでした。これが遣隋使です。隋帝国の圧倒的な国力に依存して、自国にも他国にも損害や犠牲を出すことなく、その外交的要求を達成しようとしたのです。この外交戦略は一定の成功を収めました🙆。

 

608年、隋の使者、裴世清が推古女帝の宮殿、小墾田宮を訪れました。そして、610年には新羅はわざわざ任那の使いを伴って朝貢してきました。

 

しかし、それから8年後に隋は滅んでしまい、倭国は再び自力で新羅に対して「任那の調」の献上を強制しなければならなくなります。

 

そして、外相厩戸皇子は、隋に代わった唐との国交樹立を模索する最中、621年に斑鳩の官邸で不帰の客となったのです・・・

 

聖徳太子・・・その人は日本で初めて異例の「大抜擢」をうけた男といっても過言ではないのです🙆カッコいい!

ABOUT ME
makoto
「そして男は時計を捨てた・・・ひとり編集長の冒険」を運営している、ひとり編集長のmakotoです。 「そして男は時計を捨てた・・・」を活用して知識や情報を深めていきましょう!新聞を読むような感じでペラペラめくってみて下さい。 そして、自分の大好きな方に知識をシェアしていってください👍 ひとり編集長と情報の冒険をしましょう😃どうぞよろしくお願いします👍