「そして男は時計を捨てた・・・」にようこそ!

このブログサイトは、みなさんの知識や情報、その他のことを入手するお手伝いをするブログサイトです。

テ-マを設けずに、さまざまな事柄を書いていきます。ごくまれに私的なことも織り混ぜていこうと思います。

ぜひ、このブログを活用していただけたら、うれしく思います。ただし、このブログには画像は一切ありません。文章のみのミニマムなブログになっています。文章のみでみなさんに伝えていきます。

毎日1~2記事を更新していきます。土、日は更新は多めとなります。

「そして男は時計を捨てた・・・」を今後も末長くご愛読ください😉




世界

防御力はゼロ?「8」に彩られた謎多きイタリアの城

オリンピックもパラリンピックも終わって、明るいニュースも減ってきました。そこで、少しでも縁起の良い話題をしてみましょう。😊日本では末広がりの数字として親しまれる「8」に拘ったお城を・・・南イタリアのプーリア州アンドリアの郊外に建つ、カステル・デル・モンテ(デルモンテ城)を。

 

カステル・デル・モンテはレ・ムルジュ高原の「ルジアの丘」と称される、なだらかな丘の上にポツンと佇む、孤高の城です。神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世(1194~1250 在位1220~1250)によって、1240年頃から建設が開始されました。

 

2階建てのこの城は、「丘の上の王冠」とも呼ばれるように、王冠のような形をしています。しかし、上から見下ろすと、この城が八角形で成り立っていることがわかるのです。八角形の中庭を八角形の外壁が囲み、8つの角のそれぞれに、八角形の小塔を配しているのです。

 

八角形の中庭と壁に挟まれた内部は台形の8つの部屋に仕切られていて、8枚の葉など8にまつわる装飾も残っています。つまり、何からなにまで8に彩られているのです。

 

幾何学的な美しさに満ちたこの8づくしの城は、1996年に世界遺産(文化遺産)に登録され、1ユーロセントの裏面にもその姿が刻まれました。

 

一般に、中世の城郭は軍事要塞の役割を担っているのですが、軍事目的で建設されたわけではないとされています。

 

なぜなら、カステル・デル・モンテの防御力はゼロに近いからです😱。城を守る堀はなく、跳ね橋、城壁、矢を射るための窓などの防衛設備も、いっさい持ち合わせていません。城内の螺旋階段も攻める方に有利な左回りで、馬小屋も食糧の保管庫も設けられていません。

 

では、何のために建てられた城なのかというと、それが確かなことはわかっていないのです😅。

 

建築目的がまったく不明の8づくしの城・・・こんな不思議な城を築いた神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世とは、どのような人物であったのでしょうか?

 

神聖ローマ帝国とは、962年のオットー1世の戴冠によって成立した中世のドイツ国家の呼称です。神聖ローマ皇帝は、キリスト教世界の守護者であり、俗界の最高位です。

 

なぜ、ドイツの皇帝であるフリードリッヒ2世が、南イタリアにカステル・デル・モンテを築いたかというと、それは彼が、シチリア王(在位1197‐1250)も兼ねていたからなのです。彼はイタリアで生まれ、イタリアで育ち、イタリア語を母語とし、イタリアを愛し、56年の人生のほとんどをイタリアで過ごしています。日本では「フリードリッヒ2世」とドイツ語読みで呼ばれることが多いのですが、イタリア名での呼び名は「フェデリーコ」といいます。

 

父は神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世、母は両シチリア王国(ナポリ・シチリア両王国)の王女コンスタンスで、祖父は、赤髯王(バルバロッサ)の異名で知られる英主・神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世です。

 

フリードリッヒ2世は幼いころから聡明で、知的好奇心に溢れていました。歴史、哲学、神学のほか、天文学や数学などを習得しています。カステル・デル・モンテの設計にも、フリードリッヒ2世の数学や幾何学の知識が反映されているといわれています。

 

語学にも堪能で、ラテン語をはじめ、ドイツ語、フランス語、ギリシア語、アラビア語など9カ国語を話し、7カ国語で読み書きがができたといいます。フリードリッヒ2世は「世界の驚異」と称される知識人であったのです。

 

頭脳のみならず、乗馬や槍術、狩猟など、武芸やスポーツにも並々ならぬ才能を発揮しました。まさに文武両道の天才です。

 

フリードリッヒ2世の功績のなかで、もっとも知られているのは、「破門十字軍」とも称される、十字軍において聖地エルサレムの回復です。

 

1228年、フリードリッヒ2世は4万のドイツ兵を率いて十字軍遠征に出発したものの、疫病に罹り、帰還している。教皇グレゴリウス9世は、これを仮病と断じ、フリードリッヒ2世に破門を言い渡しています。当時の人間にとって、破門は社会的な死であったのです。

 

翌1229年、フリードリッヒ2世は病が快復すると、破門の身ながらも、再び聖地へと向かっています。

 

フリードリッヒ2世が聖地回復のために選んだ手段は、外交交渉でした。

 

フリードリッヒ2世は、当時、聖地エルサレムを支配していたアイユーブ朝のスルタン、アル・カミールと粘り強く交渉を重ねました。そして、講和を成立させ、10年という期限付きで、エルサレムをはじめとする諸都市の回復に成功したのです。これは実に130年ぶりの聖地回復でもありました。成功の背景には、フリードリッヒ2世が流暢なアラビア語を話し、イスラムの文化にも深い敬意を払う教養人であったことがあるといわれています。

 

カステル・デル・モンテを築いたのは、これまでの十字軍が武力でもって果たせなかった聖地回復を、無血で成し遂げた男なのです。

 

それでは、カステル・デル・モンテの謎に迫ってみます👍

 

先程のように、フリードリッヒ2世がカステル・デル・モンテを建設した理由は定かでないが、いくつかの説があります。

 

最も有力とされるのが、鷹狩りのために建てられたという説です。

 

フリードリッヒ2世は、鷹狩りを愛好していました。しかし、フリードリッヒ2世の著作で、死後に彼の息子が編纂した『鷹狩りの書』には、カステル・デル・モンテに関する記載はありません。

 

天体観測や占星術、錬金術などの実験のために建てたとみる説もありますが。8という数字へのこだわりや黄金比などから、あり得ない話しではないのですが、これも確証はありません。

 

フリードリッヒ2世は、キリストの聖杯を所有していて、それを納めるために建てたという説もあります。

 

城の窓からは、フリードリッヒ2世が愛した2人の妻が眠るアンドリアの街が見えるといいます・・・

そう・・・もしかしたら、フリードリッヒ2世は2人の妻を偲ぶために、カステル・デル・モンテを建てたのでしょうか?

 

しかし、答えは永遠の謎のままなのです・・・

ABOUT ME
makoto
「そして男は時計を捨てた・・・ひとり編集長の冒険」を運営している、ひとり編集長のmakotoです。 「そして男は時計を捨てた・・・」を活用して知識や情報を深めていきましょう!新聞を読むような感じでペラペラめくってみて下さい。 そして、自分の大好きな方に知識をシェアしていってください👍 ひとり編集長と情報の冒険をしましょう😃どうぞよろしくお願いします👍