「そして男は時計を捨てた・・・」にようこそ!

 

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「そして男は時計を捨てた・・・」を今後も末長くご愛読ください😉 by ひとり編集長




社会

農村・漁村にあった「寝宿」が消滅したのはなぜ?

かつて日本の村落はその共同体を維持・存続させるために、様々な風習、掟、決まり事があったのです。日本人は民度が高く慎ましいといわれています。確かに、お上?!のすることに文句は言うけれども怒りの声は上げません。

 

例え、税金を湯水のように無駄遣いされようが、無責任な政権運営で将来に不安が生じようが、デモなどは滅多なことでは起きることもなく、海外のように暴動や略奪も起きません・・・

 

しかし、そうした規律を保つことで蓋をされた憂鬱は静かに深く潜行していき、やがて屈折して下半身😚を抑圧したりします。社会の緊張と人々の性的な混乱は決して無関係なものではないのです。

 

その結果、セックスレスの夫婦が増大し、婚外セックスの花盛りをきたし、セクシャルハラスメントが頻発し、道徳論者的に言えば「性的乱倫」の世の中が到来しているということ・・・

 

いつの時代も社会はなんらかの形で矛盾と緊張をはらんでいたし、いつの世にも性的な混乱は見られていたのです。現在の日本社会は性的な面では確かに大きく揺れ動いているように見えます。

 

セクハラが人権侵害にあたるという、いわば当然の認識が、いまになってようやく社会的に承認されていたり・・・しかし、それはセクハラについての取り締まりの法律ができたことによる結果に過ぎないのです。

 

近年になって男たちが女性に対する性的な好奇心と、その愉しみに目覚めたわけではもちろんないのです。

 

「恋人はいるの?」などと口にする・・・ちょっとした下ネタや、忘年会においての酔った勢いで部下の女性の腰に手を回すといった行為・・・これらは、平成の前半くらいまでは多くの男たちは大した気の咎めを感じることなく、日本全国の至る所で日常的に行われていたはずの光景。

 

しかし、それが法律違反だということになり、発覚すれば事件として扱われて新聞に出るようになったり、社会から糾弾されたりするようになりました。そのためやたらと目に付くようになっただけで法律の制定によって、それまで隠れていたものが表面化しただけなのです。

 

性に対してのとらえ方は時代によって、大きく変化しています。

 

明治から昭和まで女性に課せられた貞操観念という観念は過去のものとなった一方、「彼氏はいるの?」といった親睦を目的とした会話や、かつては場を和ませ冗談として笑い飛ばしていた下ネタは断罪されます。

 

個人の「私」の部分では自由気ままに淫奔に耽りながらも、職場など「公」の部分では他人の僅かな介入には断固として徹底拒絶するのが、いまの世の中の風潮です。

 

かつて明治時代以前の庶民階層の間では結婚前の性行為などは当然のことでした。

 

日本の村落はその共同体を維持するために、様々な風習、掟、決まり事があったのです。その一つが「若衆組」という制度です。

 

それは共同労働慣行や婚姻制度の維持といった村という共同体の維持を目的としていました。

若衆組は、若者仲間とも呼ばれた年齢集団で、13~15歳で仲間入りする土俗的な教育組織です。脱退は25歳とする村が多く、年齢にかかわらず結婚すれば脱退という村もあったのです。

 

若衆組の根本的な存立要件は、村を守り、維持することにあり、自警団的な存在にとどまらず、消防、農作業、請負など村で行う協同の行事や作業といった活動を担っていました。

 

また、定期的に集会を開き、社会常識、社会秩序、農業をはじめとする様々な知識や技術を習得するとともに「公共心」「共同心」にもとづいた自発的心得を学ぶ場でもあったのです。

 

私的な生活面においても、飲酒・喫煙の指導や、恋愛、性、結婚を管理誘導するなど、公私ともに若者の成長を促すといった側面も持ち合わせていました。

 

若衆仲間へ加わる「若者入り」することで、一応一人前の男として認められ、稲刈り、耕転、村日約などの仕事をすれば一人前として賃金が支払われました。また、才能があり、特に腕に覚えがあるとなれば相対で分増しができ、一人前いくらという価格、仕事量の暗黙の了解があったのです。

 

それは「一人前」の構成員を育てることが、村が共同体として存続する上で根本的な要件であったことによります。

 

定期的に行われる会合では若衆宿、寝宿などといわれる寺院、仏堂などを利用したり、個人住宅の一部を借りたり共同集合所があり、寄合や祭礼行事のときに宿泊し、様々なことを教えられる仕組みになっていたのです。

 

若衆仲間へ加わり若者入りすれば、その晩、寝宿である寺院もしくは仏堂に若者は女性とお籠もりする儀式があります。そうした風習は、性道徳という観点で現代風にとらえたとしたならば、女性と若者は姦通、密通、不義として告発されるべき、となります。

 

しかし、かつての日本では盆踊りなど祭礼行事の夜、乱交が行われるなどの性的解放を、いまの観念と同じように猥褻な風俗ととらえることは、全くの誤解にほかならなかったのです。

 

それは、一人前の男、あるいは女として、村という共同体をどのように維持し、存続させるべきかという背景が、そうした性の解放の必要性を堅持させたのです。

 

仏堂に若者と女性がお籠もりの儀式が、表面的には宗教行事的な装いをもっていたのは、ただの性的儀式であれば、女性たちの抵抗感や拒否感を増幅させかねません。しかし、若者への仏教的な教育目的を掲げることで、性的指南の遂行を可能にしたのです。

 

新たに若衆入りする人数は、毎年3~5人くらいだったようですが、その若者の性的指南をするのは、主に後家さんで40歳前後の「吊るし柿」といわれる中年女性が選ばれます。

 

もし、後家さんの数が足りないようなら40歳前後の主婦がくじ引きで選ばれ、37歳の厄年の主婦が厄払いとして加わることもあったそうです。

 

若者を相手にする女性は柿に例えられ「干し柿」が老女、「吊るし柿」が中年女性。「たる柿」が年増女、「赤柿」が盛期の女性、「青柿」が処女、少女といわれていました。

 

つまり、「吊るし柿を食った」といえば中年女性に一人前にしてもらったことを意味します。

集合所であるお堂には仏像が祀られていて、女性は日暮れになるとそれに向かいながら般若心経を唱えます。そして若者たちが心経を唱えられるよう教育するのです。

 

般若心経をだいたい覚えられるようになる夜半となれば、女性たちは床に布団を敷きます。そこで女性は、どの若者と今晩、組むことになるかを決めることになるのです。その方法はいろいろですが、たいてい「じゃんけん」、もしくは「あみだくじ」です。

 

女性と若者は布団に入ると、しばらく雑談して気分を和ませます。女は着物の帯を解いていつでも裸になれるように準備しておくわけです。そして、まずは乳房を見せて、触らせたり、吸わせたりしてよくならし、それが済むと下の股へ手を入れさせて、なでさせたり、いろいろといじらせるのです。

 

そして、双方、いよいよ気分が高揚したところで腰巻を外して全裸になり、ご開張して若者に拝ませるのです。女性は裸になって、若者の上に乗ると、女の抱き方、組み方を教え、口吸い、乳吸い、そして男のものを握って自分の中へと挿入するのです。

 

第1ラウンドが終了すると、女性と若者は般若心経を再び読誦し、そして茶を飲み、菓子や餅を食べながら女性は猥談で場を和ませ、夜這いの作法、女の口説き方、女体の特色、結婚までの心得、性生活や出産の話などをして性に対する知識を若者に伝えるのです。

 

そして、第2ラウンドに突入へ・・・

 

それからのことは当人次第ですが、性愛の場となれば人は誰しもが、恥じらいという垣根を取り払い、ありとあらゆる建前を無視し、欲望の赴くままに本音で振る舞うことになります。

 

女性たちは若者が一人前の男となるよう、夜這いに行って恥をかかないだけの教育をした上で、早朝、薄暗いうちに家に帰らせたのです。

 

お籠もりのことは女性も若衆も他人に喋ることは禁忌でした。

若衆入りの際、後家さんだけでなく、中年の主婦が動員されたのは、実際には要員が足らないための補欠というものではなく、後家を含めて中年の主婦たちによる互選によるメンバー選考であったのです。

 

それは若衆入りの儀式が、中年となった女性が慣れ切った村の生活の中で、本当に燃える瞬間を堪能できる数少ない機会でもあり、日常の世界では手枷足枷となっている体面やらプライドやらをかなぐり捨てて情交に励み、昂奮し、陶酔できる重要な情態だったためです。

 

性交とは日常からの小さな逸脱、その執行が共同体を支える一半の女性の権利として重視視されたのです。

 

お籠もりで教育を受けた後、若者と女性との性の関係性の継続は、来年の次の若衆入りまで続く場合もありましたが、それは双方合意の上の夜這いといったかたちとなります。しかし、そうしたケースは稀でした。

 

なぜなら若者にしても「たる柿」、「赤柿」などのうまい柿も村には実っているので、いつまでも「吊るし柿」を欲しがるわけではなかったからです。そこに性的技能者としての権利と義務の限界があったのです。

 

近代より以前の日本では、伝統的に村落共同体の若い男女が自家を離れて一定の規制のもと、集団的訓練を受ける共同の寝室を寝宿といいました。

 

それは、遊び宿、寝部屋とも称され、性行為や夜這いの指南などを含む、婚姻の媒介機関としての役目を担ったのです。

 

通常、男女別々に宿がありましたが同宿のものもありました。一般的に民家の寝室が利用され、寝宿は東日本よりも西日本に多く見られ、農村より漁村が多く見られました。

 

青年たちが集うのが若衆組ならば、村の娘たちの組織は「娘組」です。

娘組は娘仲間、おなご組ともいい、共同作業したり、寝泊りしたりできる「娘宿」も存在していました。

 

娘たちは家で夕食をすませると娘宿に集合し、布に織るために麻を細く裂いてつなぎ合わせて糸にする苧績(おう)み、裁縫などの針仕事、縄を綯い草履を作る藁仕事などを共同で作業するなど、夜なべ仕事をします。

 

宿を提供する家の主人主婦が宿親として娘たちを一人前の大人の女性となれるよう教育、監督し、異性との交際に指導、助言を与えたるなど、娘たちの相談相手の役目を担い、娘が嫁入りした時には第2の母として媒酌人にもなりました。

 

男と女の寝宿の行き来は活発でしたが、そうしたことは若者が何の規律もなく勝手する放恣では決してなく、仲間同士内の相互規制が働いていたようです。

 

娘宿を宿親の了解のもとで若衆組の若者たちが連れ立って訪れると、娘たちの仕事を手伝いながら親睦を深め、やがて恋愛関係となり、結婚する者も多かったのです。

 

若衆組が娘宿に行くことを「娘遊び」といいました。それは若者が夜分、娘宿に行き、気になる娘の寝床に入ることを指します。いわゆる「夜這い」です。

 

しかし、それは俗に言われる、ただ、男が性欲を満たすために女の寝床に忍び込んで性交するというものではありません。

 

夜這いは、若者が自分の親に夜這いする相手について事前に報告・相談し、宿親や娘も承諾した上で決行され、相手に受け入れられれば、宿親が双方の親と話をつけて正式な婚姻関係が成立するという、配偶者探しの一つの方法であり、村という共同体の一員として、一人前の男として責任のともなう行為だったのです。

 

若衆組が娘組を配下に置いていたケースもあったようです。明治42年10月改則の青森県下北郡東通村尻屋における「若者連中規約」というものの一部にその有様の一端を垣間見ることができます。

 

一、若者連中は一週間に一回平均なる集合に会合する事。

一、15歳以上の女を以て、「めらし組合」を組織し、これは若者連中に附属し、凡ての行動は若者連中の指揮を受くるものとす、随って保護を受くるものなり。

一、「めらし外泊」は、若者連中の許可なくして出来ざる事。

一、尚連中の若者に非ざれば、肌を接する能わざる事。

一、家族は一切娘そのものには、何も構えもせず、一切若者連中に預け、若者の自由に任せること。

 

若衆組と娘組は性を分かち合い、その交際から、跡を継ぐ者たちが生まれ出て、村という共同体が存続させるためのシステムとして機能していました。しかし、明治になると西洋の思想の影響により、因習として倫理的な批判を受け、若者組は青年団など官製組織にとって替わられて衰退していったのです。

 

また、娘組も女性の貞操観念の欠如を促す性的乱倫の温床とされ、婚前性交に寛大であった近代以前の性文化が、悪しきもの、恥ずべきものとして批判に晒されることになってしまったのです。

 

しかし、人の往来のあまりない地方の農村や漁村の多くで、昭和の時代になっても密かに寝宿の習俗は続いていたといいます。

 

寝宿に寝泊りすれば男女の出会いにより、結婚、出産へと導かれ、娘宿は村落の人口減少を防ぎ、共同体を維持するための重要なシステムとして機能していた・・・これが、かつての日本の社会だったのです・・・😲

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