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書籍

自らの立場に悩み続けた「芥川龍之介」

2012年の暮れから連載が始まった漫画「文豪ストレイドッグス」が火付け役となって広がったのが「文豪」ブームです。文豪たちは人並み外れたイメージと言葉を自在に操る一方で、私たちと同じように生きて暮らし、悩み、悦び、苦しんだ生活者でもあるのです。では、文豪たちはどこで誰とどのように暮らし、何を考えていかに生きたのでしょうか?暮らしと執筆の場である住宅をめぐる事情を知ると、その姿が鮮明に浮かび上がってきます。

 

芥川龍之介は、その住まいをとおして、絶えず時代の流れに向き合い続けた文豪でした。下町の家で江戸趣味に親しんだ子供時代から、文化人たちの避暑地軽井沢で社会主義文献に取り組んだ晩年、そして大正から昭和へと激動する時代に対する「ぼんやりした不安」の中、自宅の書斎で自ら死を選んだ最期まで・・・

 

文豪は、1892年、父・新原敏三と母・フクの長男として、東京市京橋区入船町8丁目1番地(現中央区)に生まれました。しかし、生後8カ月の頃、母フクが突然、発狂したのです。そのため、龍之介は、フクの兄・芥川道章の家に引き取られることになります。道章と妻・トモのあいだには子供がおらず、道章の妹フキが同居して人手もあったので、龍之介を育てるにはふさわしい環境でした。道章の家は、江戸情緒を色濃く残す下町、本所区小泉町15番地(現墨田区)にありました。

 

芥川家は代々、江戸城内の茶室を管理し、将軍や大名たちを茶の湯で接待した奥坊主の家系です。江戸時代の本所小泉町付近の地図にも、芥川家の記載があります。さらに、道章の妻・トモは、細木香以の姪でした。

 

香以は幕末の人で、新橋山城町で酒屋を営んでいましたが、俳句や狂歌、書といった多彩な趣味をたしなみ、遊郭でも名の知れた大の通人でした。この香以の生涯にはあの森鷗外も関心を寄せ、史伝『細木香以』(1917)を著しています。これをきっかけに芥川は鷗外を訪ね、細木の読みは「ほそき」ではなく「さいき」だと知らせたり、香以の辞世の句を伝えたりしたのです。

 

18歳の時に新宿へ一家で引っ越すまで、芥川はこの本所小泉町の家で暮らしました。その家庭の雰囲気を、芥川は後に『文学好きの家庭から』(1918)に記しています。

 

「文学をやる事は、誰も全然反対しませんでした。父母をはじめ伯母もかなり文学好きだからです。その代り実業家になるとか、工学士になるとか云ったらかえって反対されたかも知れません」

 

こうした空気の中で、少年時代の芥川は、江戸以来の大衆的な絵入り小説本、草双紙に親しみ始め、徐々に滝沢馬琴、式亭三馬、近松門左衛門といった江戸の作家たちを本格的に読みこなすようになります。

 

読書の一方、近所の遊び場も、江戸情緒を感じさせるものでした。小学生時代の芥川は、両国の回向院の境内でよく遊びました。友達と石塔を倒す悪戯をして怒られたりもしましたが、その墓地には、江戸の戯作者・山東京伝の墓や、有名な鼠小僧治郎吉の墓がありました。

 

また、身体の弱かった芥川少年が水泳を練習したのは、隅田川の下流、いわゆる大川端のあたりでした。芥川は、随筆『大川の水』(1914)で「大川の水の色、大川の水のひびきは、わが愛する『東京』の色であり、声でなければならない」と言っています。「自分は大川あるが故に、『東京』を愛し、『東京』あるが故に、生活を愛するのである」。

 

1910年、芥川が東京府立第三中学を卒業して第一高等学校(一高)に入学した年の秋、一家は新宿2丁目71番地に転居します。芥川の実父、新原敏三が支配人を務める牛乳販売業者、耕牧舎の経営する牧場の一角です。2年生になると、芥川は本郷の一高の寄宿舎に入りますが、バンカラ風の寮生活が肌に合わず、わずか1年間で退寮しています。

 

1913年、芥川は東京帝国大学英文学科に進学し、翌年には仲間と同人雑誌『新思潮』を創刊します。その秋に一家が引っ越したのが、北豊島郡滝野川町字田端435番地(現北区田端1-19-18)の新築の家です。この家が、文豪終生の住まいとなります。

 

芥川は、大学を卒業した1916年から1919年まで、横須賀の海軍機関学校の英語教師を務めていました。この時期の芥川は、初め鎌倉の洗濯店の離れを借りていましたが、後に勤務地により近い横須賀の下宿に移っています。1918年に塚本文と結婚すると、鎌倉大町字辻の小山別荘内に新居を定めます。

 

しかし、執筆活動に専念するため機関学校を退職した1919年、再び芥川は妻とともに養父母のいる田端の家に戻ります。以降、旅行や療養中の旅館やホテルでの生活を除き、芥川はこの田端の家に住み続けることになったのです。

 

このころ、芥川は田端の家の書斎を「我鬼窟(がきくつ)」と名づけました。「我鬼」は芥川の雅号で、自我の鬼、エゴを意味します。エゴというテーマは『羅生門』(1915)以来、芥川の多くの小説の底を流れているものです。

 

このとき芥川は、一高時代の恩師である菅虎雄に揮毫を頼んだ「我鬼窟」の額を書斎に掲げました。菅の本業はドイツ語学者でしたが、白雲の雅号をもつ書家でもありました。芥川の第一短編集『羅生門』(1917)の題字も、菅によるものです。

 

我鬼窟時代の芥川は、すでに文壇の流行作家になっていました。面会日の日曜になると、小島政二郎、佐佐木茂索、瀧井孝作、南部修太郎といった後進の作家たちが、芥川の家に集まってきたのです。

 

多忙で来客を断りたいときなど、芥川は「忙中謝客」の札を門戸に掲げることもありました。その札には「おやぢにあらずせがれなり」というただし書きが付いていて、そこからは養父母と芥川夫婦がひとつの住宅に住んでいた、2世帯同居の生活状況が伝わってきます。

 

1921年、芥川は大阪毎日新聞の海外視察員として、4カ月にわたる中国旅行に出かけることになりました。中華民国の成立から10年、当時の中国は帝国主義列強に対する民族運動が盛り上がりを見せ、激動の時代を迎えていました。

 

しかし、そうした歴史的な中国の動きをよそに、芥川は上陸早々、肋膜炎にかかってしまい、上海の里見病院に3週間にわたって入院します。中国各地を回って帰国してからも、芥川の体調は優れませんでした。胃アトニーや痔に加え、神経衰弱も悪化していったのです。この時期、『藪の中』や『将軍』といった名短編を次々と発表しつつも、芥川は心機一転の必要を感じていたのです。

 

1922年、芥川は書斎の額を「我鬼窟」から「澄江堂」に掛け替えました。その文字は、芥川の主治医下島勲によるものでした。下島は、空谷の号を持つ俳人兼書家でもあり、「我鬼」から「澄江」へ、落ち着いた、澄みわたった心境への芥川の憧れは文字の意味からも明らかですが、額の字の書風も、こうした芥川の憧れを映し出しています。あくの強い力の籠った白雲の字から、すっきりと柔らかみを帯びた空谷の字へ変わったのです。

 

このように心機一転を図ろうとしていた芥川に、思いがけない危機が訪れます。1924年の夏、軽井沢のつるや旅館の離れに滞在中のこと。その夏、軽井沢での芥川の交友は多彩でした。隣室に泊まっていた室生犀星をはじめ、谷崎潤一郎、山本有三、堀辰雄といった文豪たちと芥川は交流し、浅間山の煙が見える部屋からの眺めも、芥川は気に入っていました。

 

そんな中、彼の前に現れたのが、歌人でアイルランド文学者の片山広子(筆名・松村みね子)でした。芥川より14歳年上の彼女には、すでに夫も子供もいました。芥川は出発期の1916年に、広子の第一歌集『翡翠(かわせみ)』の書評で、「在来の境地を離れて、一歩を新しい路に投じようとしている」と述べ、その新鮮な歌風を評価していましたが、軽井沢で実際に会って話してみると、その文学的才能に強く惹かれるものを感じたのです。

 

「彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、『越し人』等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した」

 

芥川は後に、自伝的小説『或る阿呆の一生』(1927)にこう書いています。「越し人」は、越の国の人の意味で、新潟に住む広子のこと。例えば、『越し人』には、「むらぎものわがこころ知る人の恋しも。み雪ふる越路のひとはわがこころ知る」(私の心を理解できる人が恋しい。雪の降る越の国に住む人は私の心を知っている)という歌があります。

 

ブルジョア作家という批判にさらされた
そのかたわらで、軽井沢滞在中の芥川は、社会主義関係の書物を何冊も読んで勉強しました。そのころは、1917年のロシア革命後の世界情勢を背景に、日本でも社会主義を志向するプロレタリア文学が盛り上がりを見せていた時期でした。そのような時代の流れの中で、ブルジョア作家という批判にさらされることもあった芥川は、自己の文学の方向性を見定めるため、当時最新の社会主義文献に取り組んだのです。

 

例えば、このときに読んだ、ドイツの社会主義者リープクネヒトによるマルクスの伝記的回想は、晩年の代表作『玄鶴山房』(1927)の結末に小道具として登場します。

 

「……それは小ぢんまりと出来上がった、奥床しい門構えの家だった」という描写で始まる『玄鶴山房』の家の間取りは、芥川の田端の自宅とよく似た設定になっていますが、その離れの一室で、画家の堀越玄鶴は、自己の資産の防衛や妻妾同居の家庭のいざこざに苦しみながら、肺結核で息を引き取ります。その葬儀のおり、彼の婿の従弟の大学生が読んでいるのが、リープクネヒトなのです。

 

このように、文学の面でも、実生活の面でも大きな危機に直面しながら、それを辛うじて切り抜けようとしていたのが、1920年代半ば頃の芥川の状況だったのです。鵠沼での療養、書斎での最期時代の動きに敏感に反応し、読書をとおして最新の文学・思想を追いかけ続けた芥川の家に、次々と書物が増えていくのは当然の流れでした。

 

当時の田端の家の書斎の写真からは、机の周りに本がうずたかく積まれ、床の間はもとより、部屋の窓の半分くらいまで書棚で塞がれた様子がうかがえます。そのため、1924年の末、芥川は田端の家の庭の一角に、8畳と4畳半の書斎を増築しました。これでようやく、和漢洋にわたるおびただしい数の蔵書が整理される場所ができたわけです。

 

しかし、そのころから、芥川の健康状態は悪化していきました。1926年の初めには、神経衰弱による不眠症のため、湯河原の旅館中西屋に静養に出かけ、2月に一時帰京したのも束の間、4月には再び療養のため、家族と神奈川の鵠沼海岸に移っています。

 

鵠沼で芥川は初め東屋旅館に滞在しましたが、来客が多いため、7月には近所の「イの4号」の家に移りました。

 

このころになると、不眠症ばかりでなく、幻覚や妄想知覚も芥川を苦しめるようになっていきます。歌人で青山脳病院長の斎藤茂吉が治療にあたっていましたが、病状の経過は思わしくなかったのです。

 

「こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?」と『歯車』(1927)の主人公は訴えています。

 

1927年、東京に戻った芥川は、帝国ホテルに滞在して仕事を続け、改造社から出た『現代日本文学全集』の宣伝のため、大阪、東北、北海道、新潟などへの講演旅行もこなしていきます。

 

しかし、文豪の最期は突然やって来ました。田端の自宅に戻った芥川は、7月24日未明、書斎で致死量の睡眠薬を飲んで自殺したのです。

 

遺稿『或旧友へ送る手記』(1927)には、自殺後に事故物件となるだろう田端の家の処置について、家族のために心配せずにいられない芥川の気持ちがつづられています。

 

-僕の家族たちは僕の死後には僕の遺産に手(た)よらなければならぬ。僕の遺産は百坪の土地と僕の家と僕の著作権と僕の貯金二千円のあるだけである。僕は僕の自殺したために僕の家の売れないことを苦にした。したがって別荘の一つもあるブルジョアたちに羨ましさを感じた。君はこう云う僕の言葉にある可笑しさを感じるであろう。僕もまた今は僕自身の言葉にある可笑しさを感じている。が、このことを考えた時には事実上しみじみ不便を感じた。この不便は到底避けるわけに行かない・・・-

 

プロレタリア文学の隆盛の中で、ブルジョア作家という批判に耐えつつも、そのブルジョアにもなりきれない自身の立ち位置。その苦しみを住宅事情に託しながら、文豪は自ら死を選んでしまったのです。


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