「そして男は時計を捨てた・・・」にようこそ!

 

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歴史

昔、ポテトチップスは1皿1000円の高級品だったんだよ!😲

日本で初めてポテトチップスを「お菓子」として一般向けに量産し、販売したのは湖池屋です。2022年は同社第一号のポテトチップス「のり塩」の発売60周年になります。ホテルや高級バー向けの高級おつまみだったポテトチップスは、いかにして「一袋150円」の国民食になったのでしょうか。

 

戦中から戦後の日本ではジャガイモは嫌われていました。なぜなら当時イモ類は、米・麦の生産が逼迫(ひっぱく)していた時期の代用食だったからです。少なくとも1950年代まで、日本人の多くにとってジャガイモへの関心は薄かったのです。

 

現在の日本人は、そのジャガイモを原料とするポテトチップスが大好きです。1人あたりのポテトチップス消費量はアメリカやイギリスに負けますが、味のバリエーションや製法の創意工夫に関しては間違いなく世界一かもしれません。

 

もはや日本人にとってポテトチップスは子供のおやつにとどまりません。老若男女、誰もが食べる国民食です。コロナ禍でポテトチップスの売り上げは伸びましたが、リモートワーク中の大人たちもそこに間違いなく貢献したはずです。

 

思えば、ポテトチップスはいかにして、“日本の食文化”として根付いたのでしょうか?

 

湖池屋は小池孝氏の父・和夫氏が1953年に創業しました。湖池屋の「湖」は故郷である長野県の諏訪湖からとられたものです。孝氏は創業の3年後、1956年に誕生します。和夫氏は戦後、和菓子屋勤めのセールスマンでした。

 

和夫氏が独立を志したとき、甘いものは和菓子屋の競合になるのでまずいと考えて、しょっぱいもの、つまり酒のつまみを製造する会社として湖池屋を立ち上げたのです。今の本社は東京都板橋区の成増。創業の地は文京区の目白台です。

 

当時の日本は戦後少しずつ復興が進み、酒の需要が上がっていった時期でした。おつまみの売り上げも伸び盛りだったため、わざわざセールスに行かなくても、おつまみ問屋や菓子問屋のほうから買いに来てくれたのです。湖池屋の工場も順調に拡張していきます。

 

おつまみは個包装の袋詰めではなく、一斗缶に入れていました。当時のお菓子屋さんはお菓子を大きなガラスケースに入れてバラ売りしていたので、そうやって卸していたのです。今で言うと昔ながらのせんべい屋さんみたいな感じだったのです。

 

戦後、日本に初めてポテトチップスを持ち込んだのは濱田音四郎という人物です。ハワイに住んでいた日系二世で、現地でポテトチップス製造に携わっていました。終戦後に帰国、アメリカン・ポテトチップ社を立ち上げ、「フラ印」ブランドのポテトチップスを手作りしはじめました。

 

最初の取引先は米軍の施設でした。ポテトチップスなんて日本で誰も知りません。なのでアメリカ人専用で売っていたのです。それがだんだん広がっていき、ホテルや高級なバーに卸すようになったのです。

 

和夫氏がポテトチップスと出会ったのもそういう店でした。たまたま行ったお店でポテトチップスが出てきたのです。おそらく音四郎さんのつくっていたもの。戦中戦後の人は米を食べられずイモばっかり食わされてきました。イモは代用食、まずいものだという扱いだったのです。ところが、食べてみるとこれがおいしかったのです。『ジャガイモでもこんなにおいしくなるんだ!』と和夫氏はものすごく感動したのです😲

 

ただ、ホテルやバーで出されるだけあって、値段がすごく高かったのです。今の物価に換算すれば1皿1000円くらいでした。しかし和夫氏は思いました。こんなにおいしいものを、もしお菓子くらいの値段で大量に作ることができたら・・・すごく売れるだろう・・・。しかも原料のジャガイモはたくさんある!!

 

戦中戦後、代用食としてのジャガイモは作付面積が増大しました。しかし食糧事情が回復するにつれジャガイモは余り始めていたのです。

 

和夫氏は早速、ポテトチップスの製造を試みます。菓子業者仲間の中でもポテトチップスの作り方を知ってる者などひとりもいません・・・

 

どんなジャガイモが適しているのか?厚さは何ミリがいいのか?油の温度は何度で、何分くらい揚げればいいか?すべてがゼロからの出発でした。揚げ用の丸釜にしても、既製品なんてないので手作りです。かりんとう屋さんや揚げ煎餅屋さんで使われてるものを改造していたのです。

 

当時4歳か5歳くらいだった孝氏は工場によく遊びに行っていました。その度揚げに失敗して焦げたポテトチップスがいつも大量に積んでありました。それをちょっとつまんで食べてみると、当然まずいのです😅孝氏は、一体何を作ってるんだろう?と、いつも思っていたのです。

 

同じ品種のジャガイモを同じように揚げても、焦げるものと焦げないものが出てきます。

理由は、ジャガイモの個体によって糖度が違うからなのです。糖度が高いと焦げやすく、低いと焦げにくいのです。それならなぜ糖度に違いが出るかというと、収穫後の貯蔵の仕方が違うからなのです。採れてすぐ冷蔵庫に入れてしまうと、常温で置いておくよりもずっと糖度が上がるのです。

 

当時はそういうことがわからなかったのです。和夫氏は1年も2年も、ずっと苦戦していました。同時期、和夫氏以外にもポテトチップスを作ろうと考えた業者はいたでしょうが、皆、苦戦していたのです。

 

和夫氏は最初のポテトチップスを、アメリカで一般的に流通していた「塩味」ではなく「のり塩」に決めました。

ポテトチップスはもともとアメリカのもの。それを日本風にしないと日本人には合わないと考えたのです。海苔だけでなく唐辛子も入れて、味にキレを出すようにしました。当初の揚げ油は米油100%。当時はかりんとうも米油で揚げていて、やっぱり日本人に合うのは米油だと考えたのでしょう。独特の風味もあります。ただ酸化しやすいなど安定性の問題もあり、のちにパーム油(アブラヤシの果実から得られる植物油)と混合するのが主流になりました。

 

1962年、満を持して「ポテトチップス のり塩」が発売されたわけです。値段は当時の一般的なスナック菓子よりやや高い150円でしたが、高級バーのおつまみに比べれば安いです。しかし最初は売れなかったのです😢

 

最初は流通量が少なくて扱っている店もごくわずか。ポテトチップスなんて日本人のほとんどが知らないため、見かけたとしても『何これ、おせんべい?』という反応でした。当時まだスーパーマーケットはなく、菓子専業店での流通が全体の9割。残り1割は飲み屋などの業務用だったのです。

 

しかし口コミで少しずつ広まり、ある時から一気に売れ始めます。その一助となったのがラジオ宣伝でした。

小さな会社の規模では珍しかったのでしょう。のちにテレビCMも始めますが、当時お菓子メーカーでやっていたのは明治や森永といった大手会社くらい。マスコミを使ったのは早かったのです。そのあたりは優秀なセールスマンだった和夫氏の才覚のたまものです。

 

和夫氏が初めて食べた時の「ジャガイモでもこんなにおいしくなるんだ!!」という感動を多くの人が体験し、そして、とりこになったのです😉

当時、小池家には家中にポテトチップスがあったといいます。孝氏は「幼少期の僕は文字通り、のり塩と“住んでいた”」「小学校でのあだ名は“ポテトチップス”でした」と、笑いながら当時を振り返っています。

 

ところが、売れ始めると今度は生産が追いつかなくなったのです。丸釜と呼ばれる揚げ釜に、スライスしたジャガイモをドサっと入れて、3分くらいたったら手作業で引き上げます。その繰り返しでは量産に限度があったのです。

 

丸釜をどんどん増設していきました。4台が8台、8台が16台。しかし、それだと工場がすぐいっぱいになってしまいます。本家のアメリカではどうしてるんだろう?と、和夫氏はポテトチップス工場を見せてもらうためアメリカに渡りました。なんとかツテをたどって・・・😢

 

見学先にあったのが「オートフライヤー」と呼ばれる揚げ機です。ベルトコンベヤーの要領でスライスしたジャガイモを次々と揚げ油に送り込み、次々と引き上げてゆきます。

 

その光景を和夫氏は『プールみたいな釜にポテトチップが流れていくんだ!』と表現しました。その機械を導入すれば生産量は何十倍にもなります。しかし、当時は1ドル360円の時代。とても買えない・・・😢売り上げが吹っ飛んでしまいます。そこで、自分で作ろうと考えたのです😲

 

帰国した和夫氏は、自分の記憶と手書きのメモ、撮影が許された場所の写真だけを頼りに、機械工と一緒に一からオートフライヤーの設計を始めました。もちろん図面などありません。

 

ところが、作ってみても全然ダメでした。プール状の釜をジャガイモが流れながら揚がってはいきますが、流れの右側が焦げて、左側は生だったりします。流れるスピードが左右で違っています。なので人間が横についていて、流れが早すぎたら押し戻す。人力で速度をコントロールしていたのです。

 

オートフライヤーによる製造工程の機械化が1967年になされたことを指して、「湖池屋がポテトチップスを始めて量産化した」とよく言われます。しかし、単に機械化だけでは真の量産化とはいえません。機械化すればするほど、ジャガイモが均質化されていないとうまく揚がらないからです。

 

同じ品種を大量に仕入れる必要が生じたのです。今もそうですが、ポテトチップスのノウハウの半分は機械ですが、残り半分は原料なのです。ジャガイモは産地によって品種も質も違います。なので同じ産地で大量に仕入れられるところと手を組んで、そこから毎年買うのが一番いいという結論に達しました。つまり、契約農家です。

 

当時は少しでも利益を多く出すために、ジャガイモをその都度安いところから買っていました。なので畑によって品質はバラバラです。つまり機械化には向いていなかったのです。しかも相場(その年の収穫量や需要との兼ね合いによって価格が変動する)で買っていました。

 

ここで登場するのが、北海道・士幌農協(士幌町農業協同組合)の組合長を務めていた太田貫一氏です。よつ葉乳業の創業者にして、後のホクレン(ホクレン農業協同組合連合会)会長です。2019年のNHK朝ドラ「なつぞら」で藤木直人が演じた柴田剛男(ヒロイン・なつの養父)のモデルになった人物ともいわれています。

 

太田氏は北海道史に残る有名な人物です。和夫氏は彼に『大量に同一品質のジャガイモが欲しい!しかも相場じゃなくて、毎年同じ値段で!』と話をしました。太田氏は二つ返事でOKしたのです👍

 

こうしてジャガイモの安定供給のめどが立ちました。1969年のことです。しかし、その直後に国内のジャガイモが驚異的に値上がりします。原因は1970年に開催された大阪万博でした。多くの外国人が来日してフライドポテトの需要が急拡大したせいでした。ステーキの付け合わせなどによく使われたのです。

 

フライドポテトといえばファストフードの定番ですが、日本にマクドナルドが上陸したのは翌年の1971年です。当時の日本でフライドポテトはほとんど食べられていませんでした。

 

和夫氏は士幌農協と値上がり前の値段で買い付ける約束をしていましたが、相場は既に3倍に跳ねあがっていました。当然、農家からは文句が来ます。『相場はこんなに高いのに、なぜこんな安い値段で売らなきゃいけないんだ』と・・・

 

太田氏とその右腕だった安村志朗氏が農家を説得しました。『農業はもっと産業化すべきである。相場に左右されることなく、毎年安定的に儲かるようにならなければならない。だから相場が上がろうが下がろうが、約束した値段で売るんだ。それが将来のためになる』と。

 

二人と農家のおかげで、ポテトチップスは本当の意味で量産化することができたのです☀

というわけで現在、ポテトチップスが年中いつでも食べられる状況があるのは、湖池屋が「機械化」と「原料の安定確保」によって達成した量産化に端を発するのです。

 

その後、中小たくさんの企業がポテトチップス業界に参入し、1974年には日本ポテトチップス協会が設立されるほどになりました。

 

濵田音四郎氏が日本における「ポテトチップスの父」ならば、それを広く世に流通させた湖池屋・小池和夫氏は、さしずめ「ポテトチップスの母」といえるのかもしれませんね😉めでたし!めでたし!✴

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