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歴史

明治維新の「廃仏毀釈」はタリバンの「大仏破壊」とどう違うのか?

アメリカ合衆国のアフガニスタン駐留軍撤退に端を発するタリバンの反攻は、首都カブールを制圧したことによって、全土で実権を握ることがほぼ現実のものとなりました。

 

タリバンは1996年からアフガニスタン国土の4分の3を掌握し、イスラム原理主義にもとづく政策を強引に打ち出しました。その典型的かつ過激な政策のひとつで、イスラム圏以外の人々を最も驚かせたのが、2001年に起こったバーミヤンの大仏に対する破壊行為です。

 

この石造大仏は、2、3世紀頃からアフガニスタンの地に栄えた仏教文化を象徴する遺産であり、世界に誇るものでした。暴挙からちょうど20年にあたる2021年、タリバンによる再度のアフガニスタン掌握は、多くの人々にこのときの悪夢を思い出させ、また同様の事態が繰り返されるのではないかという不安が渦巻いているのです。

 

日本でもSNS上などでそうした声が高まっていますが、タリバンによる「大仏破壊」をわが国の明治維新に起こった出来事と重ね合わせてみる向きも少なくないのです。その出来事とは「神仏分離令」を端緒に全国各地で発生した、寺院・仏像に対する破壊行為、「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」です。

 

1868年(慶応4年・明治元年)、二百数十年に及ぶ幕藩体制に終止符を打った明治新政府は、天皇を頂点とする神道国教化を目指し、千年以上にわたって継続してきた「神仏習合(神道と仏教の融合・混交)」状態の解消を目的とする「神仏分離令」を発しました。神仏分離令は「神仏判然令」ともいい、1868年4月5日から同年12月1日までのあいだに相次いで出された太政官布告、神祇官事務局達、太政官達などの総称です。

 

その内容は、神社に仕える僧形の別当・社僧(神社に奉仕する仏教僧侶)に対し、僧侶であることを捨てて俗人に戻ること(復飾、還俗)を命じ、「権現(ごんげん)」など仏教用語を掲げる神社を調査し、仏像を「ご神体」にすることを禁ずるなどでした。

 

神仏分離令は、神仏判然令ともいわれるように、その目的は「神」と「仏」を明確に分離すること、つまり神社から仏教的要素を排除し、また神と仏の境界上にあり、神とも仏とも断定できない“曖昧な”信仰対象を、神道と仏教のいずれかに帰属させることでした。

 

しかし、一連の布令・通達を「仏教排撃」であると捉えた(あるいは意識的にそのように解釈した)水戸学や平田派国学(いずれも「尊王攘夷」の理論的支柱ともなった国粋主義的な神道解釈が特色)を信奉する神職や地方官僚らが、仏像・経巻・仏具の破壊や焼却する「廃仏毀釈」に及んだのです。

 

水戸学や平田派国学などの思想に染まっていた地域では、廃藩置県により藩主から藩知事に横滑りしたものやその周囲にいた地方官僚らによって、徹底的な仏教排撃がなされました。松本藩(長野)、苗木藩(岐阜)、富山藩、薩摩藩(鹿児島)などの諸藩や、佐渡・隠岐などの離島では神・仏の分離にとどまらず、多くの寺院が廃寺に追い込まれたのです。

 

神社の社域や神社に隣接する寺院から仏像・仏具を排除し、それらを破壊しました。神職・地方官に先導、扇動された民衆もそれに加担し、仏像を焼いたり、銅鐘を打ち壊したりしたという廃仏毀釈のイメージは、これらの地域の最も過激な様相から導き出されたものでした。廃仏毀釈とタリバンの仏像破壊を並列してしまう認識も、このようなイメージから生まれているのかもしれません。

 

しかし、こうした激烈かつ尖鋭な寺院破壊・廃仏行為は、神仏分離令の本来的な目的だったわけではありません。一連の布令・通達を冷静に解釈したとき、その目的はほぼ4つの要点に絞られます。その4つとは、

・「神宮寺(じんぐうじ)」の廃絶

・「宮寺(ぐうじ・みやでら)」の神社化

・「権現」号の禁止

・「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」の社号変更

 

明治維新における「神仏分離」の本質はこうした要点に集約され、廃仏毀釈もこれらを遂行する過程で発生した異常事態だったと考えられます。

 

廃仏毀釈を結果的に招くことになってしまった、神仏分離の4つの要点とは何なのでしょうか?

 

まず「神宮寺」の廃絶というのは、古代以来の神仏習合によって、古くから地域で信仰されてきた神社の社域や神社に隣接した土地に、仏教の仏が神道の神を守ることを目的(口実)に「神宮寺」が建立されました。

 

現在も多くの参拝者でにぎわう鹿島神宮(茨城県)、諏訪大社(長野県)上賀茂神社・下鴨神社(京都府)、住吉大社(大阪府)、宇佐八幡宮(大分県)、そして皇祖神アマテラスを祀る伊勢神宮(三重県)にも神宮寺があったのです。

 

神宮寺は隣接する神社を管理・運営し、社僧や別当と呼ばれる僧侶が、神社の方でも読経など仏式で神を拝んでいました。このような仏教による神社支配、神道が仏教に従属するような体制を終わらせることが、神仏分離の重要な目的のひとつだったため、ほとんどの神宮寺が廃寺に追い込まれたのです。

 

神宮寺とは別に「宮寺」という形式があります。こちらは名前のとおり宮と寺が混然一体となったものです。八幡大菩薩を祭神・本尊とする各地の八幡宮が宮寺の形式をとり、京都の石清水八幡宮、鎌倉の鶴岡八幡宮も、かつては「石清水八幡宮寺」、「鶴岡八幡宮」と呼ばれる宮寺で、境内には仏教建築が建ち並び、多くの仏像が安置されていました。「宮寺」の神社化は、境内から仏教色を排除することを意味するため、堂塔、仏像・仏具の除去が徹底されたのです。

 

次に「権現」号の禁止です。権現とは仏教の仏菩薩が、人々を救うために日本の神に姿を変えて、この世に現われたとする思想・理論で、神仏習合を仏教側から発展させた本地垂迹(ほんじすいじゃく)説にもとづく概念です。

 

山王権現(日吉大社・滋賀県)、熊野権現(熊野三社・和歌山県)など、中世以降権勢を誇った宗教地、山岳信仰を背景に栄えた羽黒権現(出羽神社・山形県)、戸隠権現(戸隠神社・長野県)、金毘羅大権現(金刀比羅宮・香川県)などの霊場は、そのほとんどが仏教色を排除し、神社化されました。しかし、修験道の総本山で蔵王権現を本尊とする大和国吉野(奈良)の金峯山(きんぷせん)は辛うじて破却を免れ金峯山寺として存続しています。

 

4つ目の「牛頭天王社」の社号変更は、実は神仏分離のなかで最も重要な政策だったのかもしれません。

 

牛頭天王はもともとインド・祇園精舎の守護神で、日本には播磨国(兵庫県)に降り立ち、広峰(兵庫県姫路市)、京都の北白川を経て東山に祀られることになりました。祇園の神であることから、そこは「祇園社」(あるいは「祇園感神院」)と呼ばれ、牛頭天王信仰の拠点となり、全国に信仰を広げていきました。この祇園社が現在の「八坂神社」です。

 

平安時代から疫病除けの神として信仰を集めた牛頭天王は日本各地で祀られ、数多くの「天王社」が建てられました。現在も各地にある「天王」を冠する地名もそうした名残です。たとえば東京品川の「天王洲アイル」の天王洲も、江戸時代にその沖合で牛頭天王の面が引き揚げられたという伝承に由来しています。

 

近世以降も人口の増加がもたらす疫病、流行病の蔓延が、日本の各地に天王社の建立を促すことになります。しかし、天王社のほとんどは、神仏分離令で名指され、神道的側面から牛頭天王と一体とされてきたスサノオノミコトを祭神とする神社に改められて天王社は姿を消していきました。

 

なぜ牛頭天王が矢面に立ったのか? それは神道国教化政策によって国家の頂点に位置づけられた「天皇(てんのう)」と同音だったからだと考えられます。

 

廃仏毀釈には、仏像の顔を矢で射たとか、鉈で打ったとか、衆人の面前で鐘をたたき割った、あるいは仏像が河原に打ち捨てられていたという“伝承”が数多く残されています。廃仏毀釈が前近代的な暴挙であり、タリバンに比肩する蛮行だとみなされるのも、こうした伝承に基づくものです。しかし、こうした証言をすべて鵜呑みにしていいのでしょうか?

 

これらの証言は、その出来事があった直後に記録されたものではなく、誰が見て、誰に対して話したかが曖昧なものがほとんどであって、そのリアルでセンセーショナルな視覚化、物語化が、信憑性をかえって損なっているような感じがします。

 

一方で、廃寺になった寺院から多くの仏像・寺宝が流失し、近隣の寺院や、国内・国外の博物館などで保存されているという現実があります。

 

つまり、仏像が“破壊されなかった”証拠は意外なほど多いのです。国外への流失は、仏像・仏画の美術的価値・経済的価値の発見という、神仏分離後に生まれた西欧的・近代的価値観による事例だと考えられますが、堂塔や仏像が近隣、あるいは遠隔地の寺院に移され、現在も信仰されている例も少なくないのです。

 

また宮寺という形式のもとで、神を祀る社殿と並立していた仏塔が、“書庫”であるなどといった名目で保存されている例もあります。つまり、誰が国家の政策に反し、信仰の対象を守ってきたのかという事実にも目を向ける必要があるのです。

 

それでは一体、廃仏毀釈はタリバンの大仏破壊と同類の蛮行だったのか?イスラム原理主義を掲げ、世界に誇る仏教遺産を破壊したタリバンに対し、神仏分離によって、たとえば「奈良の大仏」や「鎌倉の大仏」、京都・三十三間堂の「千体千手観音」のような“象徴的”な仏教美術が破壊されたわけではありません。

 

一方で、明治維新の時点では、仏像・仏画や仏教建築は、あくまでも信仰の対象であって、美術史的価値や建築史的価値といった近代の“まなざし”で見られてもいませんでした。

 

ここに廃仏毀釈とタリバンの仏像破壊の根本的な差異を見い出すことができます。つまり、明治新政府や、その政策に便乗した人々は、近代化を口実に現在進行形で信仰されている仏像を破壊したのです・・・

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