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歴史

文豪・森鴎外が犯してしまった「大失敗」とは?

1912年、ポーランドの生化学者カシミール・フンクは、それまで原因不明であった「脚気(かっけ)」という病気が、「ある栄養素の不足」によって起こることを突き止めました。

 

生きるために必須(vital)であること、それがアミン類(amine)という化合物であったことから、この栄養素を「vitamine」と名づけたのです。これがビタミンB1であったのです(のちにアミン類でないビタミンもあることがわかり、vitaminという表記に変わります)。

 

それからのち新たなビタミンが次々と発見されていき、それまで原因不明だった数々の病気が、「特定の栄養素の欠乏」によって起こっていたという驚くべき事実が判明します。壊血病(ビタミンC欠乏)、くる病(ビタミンD欠乏)、ぺラグラ(ナイアシン欠乏)、夜盲症(ビタミンA欠乏)、悪性貧血(ビタミンB12欠乏)など、とにかくさまざまな病気の原因がビタミン欠乏にあることがわかってきたのです。

 

ビタミンは、三大栄養素と違ってエネルギーにはならないものの、人体の機能を正常に保つために必須の有機化合物の総称です。ビタミンは実に13種類あり、体内ではほとんど合成できません。なので、私たちは食品から摂取しなければ生きていけないのです。

 

脚気は、かつて日本で「国民病」といわれるほど流行した歴史があります。脚気にかかると、神経の障害によって手足が麻痺し、しびれなどを引き起こします。重度になると、心臓に障害を起こして死亡することもあります。

 

江戸時代、玄米に代わって白米が徐々に普及するにつれ、脚気が広まり始めました。米の胚芽に多く含まれるビタミンB1は、精米によって取り除かれてしまうからです。その上、当時は副食も乏しく、そもそもビタミンB1は欠乏しがちでした。もちろん当時はビタミンという概念はなく、脚気は原因不明の奇病とされ、白米がいち早く普及した江戸に多かったことから、「江戸わずらい」などとも呼ばれていました。

 

明治時代以降は脚気の流行がさらに拡大し、年間1万~3万人が脚気で亡くなりました。特に、同じ兵食を食べる軍隊内では脚気によって兵士が次々と亡くなり、国家を揺るがす大問題になったほどです。戦傷者より脚気患者のほうが多く出て、壊滅状態に陥る隊すらあったのです。

 

当時、海軍軍医の高木兼寛は、脚気の原因が食べものにあることをいち早く見抜き、兵食に麦飯を取り入れ、海軍の脚気を激減させました。イギリスに留学経験のあった高木は、イギリス海軍に脚気がないことに注目し、洋食が解決の鍵であることに気づいたのです👍

 

一方、陸軍軍医であった森林太郎は、脚気は「脚気菌」による細菌感染症であるとする説にこだわりました😅

 

当時、ドイツで細菌学が隆盛し、世界をリードしていました。東京大学からドイツに留学し、最先端の医学を学んだエリート軍医の森にとって、高木の経験則に基づく治療は非科学的に映ったのかもしれません。森は麦飯が有効とする説が広まると、まるで対抗するかのようにますます細菌説に固執していきました。当時の陸軍の兵食は1日に白米6合であり、副食は乏しく、皮肉にも脚気のリスクが極めて高い食生活だったのです。

 

その結果、日清戦争では4000人以上、日露戦争では2万7000人以上の陸軍兵士が脚気で死亡した一方、海軍兵士の脚気による死亡は日清戦争でゼロ、日露戦争ではわずか三人でした。海軍の兵員数が陸軍より少ないことを差し引いても、凄まじい差です。

 

1911年に、化学者、鈴木梅太郎が、脚気に効く物質を米糠から取り出すことに世界で初めて成功し、これをオリザニンと名づけました。しかし、日本語論文での発表であったため、世界的には広まりませんでした。その翌年、フンクによって「ビタミン」が発見され、ようやく脚気はビタミン欠乏症の一つであることが認知されたのです。

 

こうした経緯から、森林太郎は医学史においてやや評判の良くない人物?!ではありますが、一般には「森鴎外」の名で日本を代表する文筆家として広く知られています。

 

一方、ドイツ医学への偏向、研究至上主義に傾きつつあった日本に、実地で患者に接し、治療を行う臨床医学の大切さを広めるため、高木兼寛は1881年、医学研究会「成医会講習所」を設立しました。これがのちの東京慈恵会医科大学なのです・・・

 

文豪、森鴎外こと森林太郎・・・トホホ😅

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