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歴史

大奥における「正室」「側室」の顔の違い

ひと頃流行った「ソース顔」に「しょうゆ顔」。この2タイプは、それぞれ縄文人、弥生人の特徴に連なる、日本人のルーツを示すものです。

 

渡来系の祖先を持つ弥生人が中央集権化の過程で貴族層を形成したことから、”濃い顔”が特徴のソース/縄文人顔が被支配者層のものであるのに対して、”細面の瓜実顔”が特徴のしょうゆ/弥生人顔は「貴族顔」として良い顔という価値観が生まれました。

 

江戸時代の大奥もそうした価値観が及んだ一例かもしれません。公家出身の正室は260年の大奥史で一貫して華奢な貴族顔でしたが、側室の顔は時代が降るほどに貴族顔に近づいてくる、ということが最近の調査でわかってきたのです。

 

そして、それと同時に、側室を母に持つことが多い将軍も、代を経るごとに顔が変化していきました。日本人の顏のルーツから、日本人独特の「美人顏」「高貴な顏」のイメージができあがるまでの足跡をたどります。

 

原人や旧人が到来しなかった日本列島にも、新人、つまりホモ・サピエンスが4万年ほど前から住んでいたことは、遺跡や石器の証拠から確かでした。

 

まとまって出土したホモ・サピエンスの人骨では、2万年前の港川人のものが、最初期に日本列島にやってきたグループの代表的な形態を示しているものと思われます。

 

それは、「現代人に比べて左右に広く上下に低い頭蓋のフォルム」「側頭筋がはまる側頭骨の側頭窩が深い」「眉間の隆起や額の傾きが大きい」などの特徴が、アフリカ由来の古い時代のサピエンスの痕跡を多く残しているからです。

 

アフリカを出た初期のホモ・サピエンスは、東南アジアを経て周辺に拡散していきましたが、港川人は、オーストラリ先住民と形態的に似ていること、そして、2020年のミトコンドリアDNAの解析で現代東アジア人すべての根幹に当たる塩基配列を持つことがわかっています。

 

彼らが、どのようにして海洋を越えてきたのかは、まだはっきりわからないことが多く、国立科学博物館「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」によって、そのルートや航海の実際について検証が進められている最中です。

 

日本列島には、その後も海を越えてきた人々の一団がありました。2つめのグループである、縄文人となっていく人々です。

 

港川人ら、最初期に日本列島にやってきた人々より、さらに時代を降ってからやってきた彼らの顔は、四角く、彫りが深く、口が引き締まって、いわゆる濃い顔、いわゆる「濃い顔」だったのです。

 

日本にやってきた初期東南アジア人が、おそらく北方のステップ地帯を経由してやってきた人々とも混血して、紋様を施した土器で調理をするなどの進んだ文化にも影響され、より現代化された人になったと考えられています。彼らの顔は、世界中の人々の平均的な顔立ちをしています。

 

3つめの系統は、約2800年前に中国大陸や朝鮮半島から九州北部~本州西部にやってきた、長円で、平坦で、口がやや出っ張り、のっぺりとした顔の、一般に弥生人と呼ばれる人たち(渡来系弥生人。弥生時代の縄文人の子孫を在来型弥生人という)です。

 

彼らの祖先は、冬には零下50度にもなるシベリアでマンモスやトナカイを追っていたらしく、彼らは厳寒の気候に適応して体熱放散の少ない体型に変わっていったのです。

 

四肢が短くて凹凸が少なく、履いた息でつららができないように体毛が薄くなったのです。これを寒冷適応といいますが、のっぺりして、一重瞼の顔もその一環として形成されてきたと考えられています。

 

現在、日本列島では、渡来系弥生人の遺伝的影響が強い本土日本人、在来の縄文人の遺伝的影響が強いアイヌ、縄文人と渡来系弥生人の遺伝的影響がおよそ半々の琉球人が、日本列島で暮らしています。

 

これら3つの集団は、いずれもおおもとは縄文人ですが、大陸から渡来してきた人々の影響をどれだけ受けたかによって、顔や身体の特徴が徐々に違ってきたのです。

 

そして、時は変わり江戸時代、徳川幕府の中心だった江戸城本丸にあった大奥は、高貴な美女、華やかな着物、複雑な人間関係、陰謀うずまく恐ろしい世界、といったイメージがあります。

 

そんな大奥の女性たちの遺骨を研究する機会が2007年から2009年にかけて、寛永寺・谷中墓地の徳川家御裏方霊廟の改葬に際して、行われました。

 

この調査で、たくさんの人々の頭骨をあわせて全体を見ると、江戸時代の大奥の女性の顔には一定の傾向が見てとれたといいます。

 

庶民と正室と側室では、顔に違いがあることです。まず、庶民に比べて正室は、頭は広いが、顔は狭く、とくに顔の下のほうが狭くなっていることがわかりました。鼻も狭く突出しており、そして側室は、正室と庶民の中間と解釈できます。

 

もう1つ、興味深いのは、側室の顔が時代によって違うことです。江戸時代の前期や中期では、庶民と同じような幅広い顔が多くをしめ、後期から末期へ向かうにつれて、正室と同じように細長く華奢な顔が多くなっていくのです。

 

これは、貴族出身の正室の顔が細長く華奢なので、それが高貴な美人のモデルとして、一般に流布した影響と思われています。江戸の中期以降には大奥は、表向きは情報が閉ざされていましたが、実際は密かにファッションなどの流行発信地として機能し、まるで現在の芸能界のようだったといいます。

 

おそらく浮世絵によって、正室とよく似た細長い顔の美女が艶やかな着物をまとっている姿が日本中にばらまかれたのかもしれません。

 

その結果、庶民たちは高貴な美人たちの顔と生活に憧れを抱いたのです。そして、大奥に側室候補として女性を送り込み、あわよくば政治を支配しようと企む人々にとっては、高貴な正室に勝るとも劣らない、将軍の目にとまるような細面の美女を求めたであろうことは想像にかたくありません。

 

増上寺で発掘された徳川将軍の顔を調べた東京大学教授鈴木尚氏によれば、将軍の顔も、江戸時代の後期には細長く華奢になり、末期では典型的な「貴族顔」になったといいます。

 

ならば、一体誰の影響でそうなったのでしょうか?

 

実は、初代家康、三代家光、十五代慶喜を除くと、将軍は正室ではなく側室の子どもです。したがって、正室の「貴族顔」が将軍の顔に遺伝的影響を与えたことはありえないのです。

 

むしろ、側室の顔の変遷を考えれば、江戸後期以降に側室の顔が正室同様に細長くなったことが、その子どもである将軍に影響を与えたと考えられるのです。

 

「細面、超かわいい!😍 瓜実顔、マジ美人!😍」といった紋切り型の価値観が、父将軍の側室への寵愛を得るという間接的な手段によって、世継ぎである次将軍の顔に影響を与えたともいえます。

 

こうした大奥の美女をはじめとして、浮世絵などに描かれる美人が細面で瓜実顔なのは、日本人の形成過程が関係しているのでしょう。

 

渡来系弥生人の人々は、日本列島の中央部を占拠し、古墳時代以降に中央集権国家を築き、平安時代にはさらに、貴族階級を形成することになりました。

 

「源氏物語絵巻」を見ると、貴族たちは「引目鉤鼻」の平坦でのっぺりした顔に描かれています。富と権力を手に入れ、 進んだ技術力と華やかな文化をわがものにした彼らの顔は、「良い顔」「福々しい顔」と見なされ、さらには「日本的な顔」として認識されていったのです。

 

その一方で、大昔から日本に住んでいた縄文人の子孫たちは、中央の権力に従わなかったために、そのはっきりした顔が「人相の悪い顔」「泥棒の顔」とされ、甚だしきは「鬼の顔」にされてしまい、歌舞伎の泥棒の顔は、顔半分が黒く塗られています。

 

つまり、顔がステレオタイプにパターン化され、社会的差別が生じたのです。 だから、浮世絵に描かれる美人や役者の顔は、一重の切れ長に描かれているのです。

 

これは、平安時代以降、江戸時代に至るまで、北方アジア人の血を引くと見なされる渡来系弥生人のような顔がよいとされていたことを示しているのです。

 

明治以降に、欧米の文化が入ってくると、 欧米人に対する憧れから、ヨーロッパ人の顔に似た縄文人のような顔に対する偏見が薄れていき、昭和の終わりには「しょうゆ顔」(=弥生顔)と「ソース顔」(=縄文顔)などの表現も生まれ、一斉を風靡したことを覚えている人も多いのではないでしょうか。

 

将軍が育った大奥における顔の変化は、過度に軟らかい食物を食べるという食生活の影響も大きかったことも忘れてはならないのです。食生活の影響による口腔の変化は、健康状態に結びつきます。

 

八代将軍吉宗の生母で紀州藩主徳川貞光の側室であった浄円院は庶民型の顔で、高齢にもかかわらず遺骨には大部分の歯が残っていたといいます。

 

それに対し、京都の宮家出身の九代将軍家重の正室であった証明院は、死産により早世していますが、その顔は華奢で、遺骨には若いにもかかわらず下顎切歯がなくなっていたのです。おそらく歯周病が進んでいたと思われます。

 

さらに、貴族や大名ではなくとも、階級が事実上固定されていた江戸時代には、食生活が豊かさによってずいぶん違っていて、その影響が顔にあらわれてきたのです。

 

最近、国立科学博物館の研究によって、江戸時代は庶民でも身分あるいは所得によって、顔が違うことがわかったのです。高価な甕棺(かめかん)に埋葬されていた人々と、安い早桶(はやおけ)に埋葬されていた人々の顔を比べると、前者の顔のほうが細長くなっていたのです。

 

こうした顔の形、特に口腔(下顎骨や歯、内腔容積)が、縄文人のしっかりしたものから、古墳時代、中世を経て、江戸時代に至るまで徐々に小さくなっていくことが、遺骨から見ることができるのです。

 

しかし、将軍や大奥の貴人、公家などの特別な人を除けば、昭和の中頃までは大きな歯並びが大きく乱れた人は少なく、総じて健全な咀嚼機能を持っていました。危惧すべきは、昨今の若年層では、かつての将軍や公家よりはるかに小さくき弱な口腔を持ち、歯並びの悪い人が増えていることです。

 

本来、渡来系弥生人の影響を強く受けている本土日本人の大部分は、世界中の人々の中でも歯が大きく、歯槽骨の発達が充分でないとすべての歯が並びきれなくなり、甚だしい場合は乱杭歯になってしまいます。

 

また、下顎骨の発達が未熟だと、口腔容積が十分な大きさにならず、睡眠時無呼吸症候群になりやすく、心筋梗塞や脳梗塞の引き金となりかねません。

 

現代、そして未来に連なる私たちヒトの健全なあり方もすべては口部が重要な鍵を握っている!といえるのです😉

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