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歴史

古代ギリシャ、アテネの黄金時代に終止符を打った謎の疫病

上の画は、紀元前5世紀、終息までに市民の3分の1近く、7万5千~10万人が死亡した「古都の疫病」と呼ばれる、ミヒャエル・スウェールツの油彩画(1652年頃)です。紀元前430年に発生したアテネの疫病を描いたものだと解釈する学者もいます。

 

 

紀元前431年、古代ギリシャの2大都市国家だったスパルタとアテネが戦争に突入しました。ギリシャ本土の最南端にあるペロポネソス半島をめぐる、いわゆるペロポネソス戦争です。

 

 

地中海の勢力図を根本的に変えたこの戦いの行方を決めたのはアテネの海軍やスパルタの兵士ではなく、戦争2年目に発生した「アテネの疫病」でした。今日に至るまで謎とされているこの伝染病とはいったい何だったのでしょうか・・・。

 

 

紀元前430年の春、アテネの港町ピレウスで謎の病気が発生し、すぐに拡大していきました。北エーゲ海のレムノス島を始め、複数の土地で同様の病気が発生したという情報が流れたのです。

 

 

ピレウスでは、スパルタ人が井戸に毒を入れたのだという噂が広まりました。しかし、数週間のうちに病気は街の中心部にまで広がり、老若男女を問わず襲いかかって、かつてないほどの甚大な被害をもたらしたのです。5年後に疫病が終息するまでの間に、アテネの人口の25~35%が死亡したと推定されています。

 

 

この疫病については、主に歴史家のトゥキディデスが書き残しています。彼は一連の出来事を間近で目撃しただけでなく、自らも疫病に罹りながら生き残ったのです。著書『戦史』の中でトゥキディデスは、病気がどのように進行していくかを最初の症状から順に記しました。

 

 

「健康な人が突然、頭が熱くなり、目が充血して炎症を起こし、喉や舌など、内側が血まみれになり、不自然で腐ったような息を吐く」。症状としては、「くしゃみ、かれ声」の後、胸部が侵されて「激しい咳」を引き起こし、次に胃部が侵されて「胆汁の排出」「効果のない吐き戻し」「激しいけいれん」を引き起こす。ここまで来ると、患者は「非常に苦しい」状態だった・・・

 

 

患者の皮膚の様子は「赤みを帯びたり、土気色になったりしており、小さな膿疱(のうほう)や潰瘍(かいよう)ができている」とトゥキディデスは描写しています。

患者は体の中で炎が燃え盛っているかのような激しい熱を訴え、衣服をすべて脱いだ。喉の渇きが止まらず、貯水槽に飛び込んだ人もいた。その後は極度の不眠症に襲われたといいます。

 

 

トゥキディデスによれば、多くの患者は感染してから7~9日で死亡したようです。第一段階を生き延びた患者も、やがて下痢を伴う深刻な潰瘍性の腸炎に苦しみ、その後の衰弱が命取りになることが多かったのです。

 

 

治療にあたっての最大の問題は、この病気の新しさと感染力でした。医師たちも経験したことがないものだったため、彼らの専門知識も役に立たなかったのです。「特効薬は見当たらなかった」とトゥキディデスは記しています。「ある事例では効いても、別の事例では害になることがあるのだ」とも・・・

 

 

患者の看病にあたった人々も犠牲になっていきました。医師たちは早い段階で病に倒れました。感染すると、多少なりとも免疫力がつくようで、「同じ人が2度襲われることはなく、少なくとも致命的になることはなかった」といいます。

しかし、疫病は回復した人にも深刻な後遺症をもたらしました。中には「回復した時には全ての記憶を失い、自分のことも友人のことも分からなくなっていた」という人もいたほどです。また、手足の指や性器、目などに後遺症が残る人も少なくありませんでした。

 

 

この伝染病はアテネ人の日常生活に大きな混乱をもたらしました。トゥキディデスによると、「瀕死の人の体が重なり合い、半死の生き物たちが通りをうろついていた」。死体は山のように積み上げられ、事態の緊急性から、死者を埋葬する際の最も基本的な儀式を行う時間もなく、何人もの死体が一緒に焼かれたといいます。

 

 

疫病はアテネの社会を根底から揺さぶりました。裕福な市民が一日にして生活を破壊され、貧しい市民が死人の資産を横取りして金持ちになることもありました。疫病による死は、どんな裁判よりも差し迫っているように思われたため、もはや司法を恐れる人もいなかったのです。多くの人々は、何かが神を怒らせ、その罰として病気が解き放たれたのだと考えました。

 

 

疫病がもたらす被害の大きさに圧倒されたアテネ市民は、指導者であるペリクレスに反発するようになります。ペリクレスは、ペロポネソス戦争でスパルタ軍に侵攻されたアッティカ半島の住民を、アテネの城壁内に避難させていました。その当時は現実的に見えたこの判断が、アテネの衛生状態を逆に悪化させることとなっていたのです。トゥキディデスはこう記録しています。

 

 

「これまでの惨禍をさらに悪化させたのは、地方からアテネへの人の流入だ。その影響を最も強く受けたのは新参者たちだった。受け入れてくれる家がなかったために、暑い季節にもかかわらず、彼らは息苦しい小屋で寝泊まりすることとなり、そこでは死亡率が際限なく上昇していた・・・」

 

 

ペリクレスの政敵はさらに、彼が戦争を断固として支持したことで、禍をもたらしたと非難しました。10年以上にもわたって支持されてきたペリクレスは、重い罰金を科せられ、再選されることもありませんでした。

 

 

その後、ペリクレスは、身をもって疫病を体験することになります。歴史家プルタルコスによると、まず長男ザンティッポスが疫病で亡くなり、間もなく自身の妹も続いたといいます。その後、次男のパラルスも亡くなり、ペリクレス自身、紀元前429年の秋にやはり疫病に倒れて亡くなりました。

疫病はアテネを大きく弱体化させ、実質的にその黄金時代に終止符を打ったのです。終息した紀元前425年頃までに、市民の3分の1近くが死亡し、7万5千~10万人の命が失われたといわれています。スパルタとアテネは紀元前421年頃に休戦し最終的には、スパルタが405年にアテネの艦隊を海上で撃破し、ペロポネソス戦争に勝利しました。

 

 

この疫病の正確な原因は、未だに特定できていません。トゥキディデスが「ペスト」という言葉を使っていることから、14世紀の黒死病の原因となった腺ペストではなかったかとの説もあります。しかし、トゥキディデスの記述をよく読むと、黒死病の最も有名な症状で、ときには破裂することもある「横痃(おうげん)」というリンパ節の腫れについての記述はありません。

 

 

その後、学者たちは、チフス、コレラ、インフルエンザ、天然痘、はしかなど、細菌やウイルスによる原因をいくつか提案していき、また、研究手法が洗練されるにつれ、新たな説も生まれました。

 

 

1994年、紀元前430~420年頃の集団墓地が見つかりました。その中には、急いで埋葬されたと思われる150体の遺体があったのです。マノリス・J.パパグリゴラキス氏率いる研究チームが、3人の歯髄から採取したDNAを分析したところ、腸チフスと93%の類似性を持つ病原体が存在することがわかりました。この研究結果は2006年に発表されています。

 

 

しかし、疫病発生当時、腸チフスは一般的だったため、それが原因だったという説には異論もあります。トゥキディデスの記述によれば、古代ギリシャではかつて誰も知らなかったような病気、いわゆる「処女地感染」だったはずなのです。

 

 

トゥキディデスが記した症状の多くはエボラ熱の症状と一致しています。腸チフスや腺ペストのような細菌由来の病気とは異なり、エボラ熱や麻疹のようなウイルスの遺伝的証拠を見つけることはより困難です。

ウイルスを特定するためには、DNAよりも不安定で時間の経過とともに劣化しやすいRNAを調べなければならないのです。紀元前5世紀の有効なサンプルが見つかる可能性は非常に低いため、アテネの疫病がウイルスによって引き起こされたものだったとしても、その正体はしばらくは・・・いや、永遠に謎のままなのかもしれません・・・

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