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歴史

古代エジプト、王たちが交わした382枚の「アマルナ文書」

考古学者たちは時に、古代の世界に関するこれまでの理解を完全に変えてしまうような発見に出会うことがあります。例えば、エジプト学でいうならば、「アマルナ文書」がまさにそんな発見といえるかもしれません。それは、382枚の粘土板に刻まれた、世界最古級の外交文書のことです。

 

紀元前14世紀に書かれたといわれるアマルナ文書は、エジプトのファラオと、バビロニア、アッシリア、ヒッタイト、ミタンニなどライバル諸国の王、そしてエジプトの支配下にあった傀儡の王たちとの間で交わされた書簡です。エジプト第18王朝アメンホテプ3世の治世(紀元前1390年頃~1353年頃)に始まり、その息子のアクエンアテンの治世(紀元前1353年頃~1336年頃)までの文書で、これらを分析すれば、エジプトだけでなく、当時の地中海東部から中東までの世界情勢や力関係を読み取ることができるといわれています。

 

遥か昔、紀元前1348年頃、アクエンアテンは、太陽神アテンをエジプト唯一の神とする宗教改革を推し進めていました。そのために、テーベにあった首都を、北のメンフィスとテーベのちょうど中間に位置する何もない土地へ移し、そこをアケトアテン(『アテンの地平線』の意)と呼びました。ファラオによる宗教改革と並行して、芸術にも大きな変化が起こりました。この地域は現在、テル・エル・アマルナと呼ばれており、ここで花開いた独特の文化はアマルナ美術として知られています。

 

そのアマルナでアケトアテンの遺跡が発見されたのは、1700年代の後期のことでした。1880年代に入って、ここで遺物の発見が相次ぎ、やがてアマルナ文書の存在が明らかになったわけです。すると、アマルナは考古学的に極めて重要な土地として、にわかに注目を浴びるようになりました。

 

1890年代に、英国のエジプト学者ウィリアム・フリンダーズ・ピートリー率いる発掘団が、アマルナで初の大規模な発掘を実施すると、アクエンアテン時代の粘土板がさらに発見されたのです。また、第1回目の発掘では「ファラオ通信局」と刻印されたレンガの建物も見つかっています。

 

しかし、全ての書簡が一度に発見されたわけではありません。ノルウェー人の言語学者ヨルゲン・アレクサンダー・クヌーツォンが、1900年代初めに書簡を年代順に整理した時には、書簡の数は358通でした。残りの24通は、その後徐々に発見されていき、そのたびにクヌーツォンのやり方にならって番号が付けられました。この方式は、現在も学者たちによって使われています。

 

書簡は古代エジプトの言語ではなく、古代メソポタミアで共通語として使用されていたアッカド語で書かれ、楔形文字で刻まれていました。これまでに発見されているほとんどの粘土板は、エジプトが外国から受け取ったものですが、ファラオが外国にあてて書いた書簡を複写して手元に残してあったものも、ごくわずかですが見つかっています。

 

学者たちは、アマルナ文書を二つの主要なグループに分けました。一つは、エジプトが支配していた国の王たちからファラオにあてて書かれたもの。そしてもう一つは、ファラオと同等の独立国家の権力者から送られた書簡です。

 

前者に当たる、支配下の王たちによる書簡は、現代のイスラエルとレバノンがある地域、カナンから書き送られたものです。エジプトは、書簡が送られるおよそ100年前にカナンを支配下に入れていました。

 

ところが、新たな王国を手に入れたエジプトには、栄誉とともに悩ましい問題も持ち込まれたのです。カナンの支配者は当時、土地に住むハビルと呼ばれる人々に悩まされていたのです。ハビルとは、一部の歴史家はヘブライ人のことだと考えていますが、異論を唱える学者も多いです。

 

このハビルと和解したいと望む支配下の王たちは多かったようで、ティルスの支配者からアクエンアテンへ送られた書簡148には、ハビルの人々が地域を荒廃させてしまったことに対する不満が綴られています。その一方で、同じくカナンにあったハツォル(現代のイスラエル北部)の支配者は、エジプトに忠実だったとされていますが「ハビル人と良好な関係を築き、王の土地を彼らへ渡してしまった」といいます。

 

これに対して、ファラオと同等の国王から送られた書簡には、両者が同等の地位にあることをいつどのようにして示すかに気を配っていたことが見て取れるといいます。

 

学者たちは、当時強大な権力を誇っていたエジプト、バビロニア、アッシリア、ミタンニ(現トルコ南東部)、そしてヒッタイトのことをまとめて、「グレートパワークラブ」と呼びました。アラシア(現在のキプロス)も、小さな島国ではあるものの、豊富な銅の埋蔵量のおかげで経済的な力を持っていたことから、このクラブに入れられています。

 

書簡のなかには、王女たちを妻として互いに贈りあうことについてのやり取りが含まれていました。アマルナ文書のなかでも数少ないファラオによる書簡のうち、アメンホテプ3世からバビロニア王カダシュマン・エンリル1世へあてた書簡5には、バビロニアの王女を自分のハーレムに迎え入れたいというファラオの要望が書かれていました。

 

しかし、そのお返しにファラオの娘を妻として贈ることは一貫して拒否していたとみられ、ここからもエジプトの権力の大きさをうかがい知ることができます。カダシュマン・エンリル1世からアメンホテプへ送られた書簡4には、ファラオの要求に対する不満が述べられています。

 

「昔から、エジプト王の娘が妻として贈られたことは一度もなかった」と言い切るファラオに対して、「なぜこのようなことをおっしゃるのか。あなたは王であり、望みのままにいかなることも成しえよう。あなたがあなたの娘を私に贈るというのなら、誰がその命に背くことができようか・・・」。他の書簡も、他の王たちもファラオに対して同様の不満を抱いていたようです。あくまで決定権を持っているのは、エジプトだったようです。

 

王の位と権力の実態が最もよく表されているのは、ミタンニ王トゥシュラッタから送られた書簡です。この頃勢力を拡大しつつあったトゥシュラッタは、書簡27で、ファラオと自分が同等であることを示す「兄弟」という言葉をわざわざ使ってファラオに呼びかけています。

 

「我が兄弟、我が義理の息子、我の愛する、そして我を愛するエジプト王アクエンアテンよ・・・」

 

トゥシュラッタの娘タドゥキパは、アクエンアテンの父親であるアメンホテプ3世の側室でした。アメンホテプ3世の死後、彼女はアクエンアテンの妻となります。この結びつきは、トゥシュラッタにとって重要だったのです。北のヒッタイトからの脅威に常にさらされていたミタンニは、エジプトとの強い同盟関係を必要としていたのです。

 

ところが、間もなくトゥシュラッタはかつて支配下に置いていたアッシリアのアッシュール・ウバリト1世によって倒されてしまいます。ミタンニの力が弱まり、アッシリアが勢力を付け始めていた頃、アッシュール・ウバリト1世は、アクエンアテンに初めての書簡を送っています(書簡15)。

 

ここではまだ「兄弟」という言葉は使っていませんが、その内容はアッシリアがグレートパワークラブへの仲間入りを果たしたことを大胆に宣言するものでした。アッシリアは「荘厳な戦車、馬、本物のラピスラズリで作られた埋め込み石」など、豊富な財宝をエジプトに贈ることができる。その見返りとして、それなりの敬意を求める、と書かれてあったのです。

 

一方エジプトでは、アクエンアテンによる宗教改革が失敗に終わりました。アマルナ文書の最後の書簡は、アクエンアテンの息子で後継者であるツタンカーメンの治世に書かれたものです。ツタンカーメンの支配下で、アマルナの改革は撤回され、アクエンアテンに関する言及は削除されました。首都はアケトアテンからテーベに戻されました・・・

 

古代エジプト・・・その時代の中でアクエンアテンの築いた町はついには砂漠の砂に埋もれ去ってしまったのです・・・

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