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音楽

モ-ツァルトのようには死にたくないよ・・・

クラシックの天才作曲家には、華やかな印象があるかもしれません。しかし、モーツァルトやベートーヴェンは存命中、“お金”に悩み続けていたといいます。ベートーヴェンはパトロンのひとりを『年金不払い』で訴えたこともあった」という逸話も・・・

 

芸術活動には資金が必要です。そして、その資金を誰から、どのような形で獲得していくのか・・・これは容易な問題ではありません。歴史的に見るとバッハもモーツァルトも、ベートーヴェンも、パトロン(後援者)をどこに求めるかという問題に悩まされ続けていました。

 

モーツァルトがザルツブルク大司教と袂を分かち、ウィーンでフリーランスの作曲家として活動を開始してからの経済生活の惨めさはよく知られています。1787年にヨーゼフ2世が私的な宮廷楽師という低所得のポストをあたえたものの、彼の活動の多くは、個人的な得意先からの不定期の注文で支えられていました。

 

ただこの1787年という年は、芸術家モーツァルトの生涯にとってひとつの転機となった年でもありました。1月にはプラハへ旅立ち、『フィガロの結婚』(K492)を上演し好評を博しました。そのため、国立劇場の支配人から次の新しいオペラ作曲を依頼され、同年秋に傑作『ドン・ジョヴァンニ』(K527)を初演しています。

 

しかし芸術活動においては豊穣であったものの、経済状況は逆境のさなかにあったのです。1787年年5月、病気がちであった父レオポルトが急逝します。妻のコンスタンツェの健康も芳しくありません。家族の状況も経済状況も思わしくない中、モーツァルトは、教会からも宮廷からも疎んじられ、無視され続けたのです。

 

モーツァルトは、パトロンのいないまま、ウィーンでわれわれ音楽愛好家の宝となるような幾多の傑作を生み出しています。そしてヨーゼフ2世の後を継いだレオポルト2世の戴冠式の翌年、1791年12月5日にこの世を去り、ウィーン市門外の聖マルクス墓地に墓標もないまま埋葬されました。

 

一方で、ベートーヴェンは当時ケルン大司教領であったボンに生まれ、カトリック社会の文化的風土の中で育っています。ボン時代のパトロンには、司教・選帝侯以外に、『ピアノ・ソナタ第21番(ハ長調)』(「ワルトシュタイン」、Op53)を献呈したフェルディナント・エルンスト・フォン・ワルトシュタイン伯爵もいました。

 

ハイドンの教えを受けたいと考えたベートーヴェンは、1792年秋にウィーンに居を移します。ウィーンに移る前の年に、モーツァルトが貧困のうちに亡くなったことが自分の将来の経済状態への不安を高め、安定した収入を保障してくれるパトロンを求める気持ちにつながったのかもしれません。

 

ウィーンでの本格的な作曲活動に入った時点で、最初に彼の熱心なパトロンとなったのはプロイセン領シュレージエンの大土地貴族(元はチェコ系)でモーツァルトを援助したこともあるリヒノフスキー侯爵でした。1806年に仲違いするまで、彼はベートーヴェンを援助し続けています。

 

この大作曲家の初期と中期の傑作の多くは彼に献呈されています。『ピアノ三重奏曲第1番』(Op1-1)、『第2番』(Op1-2)、『第3番』(Op1-3)、『ピアノ・ソナタ第8番』(「悲愴」、Op13)、『第12番』(「葬送」、Op26)、『交響曲第2番』(Op36)などが挙げられます。

 

しかしベートーヴェンのウィーンでの経済生活は不安定で、苦しい状態が長く続きました。

 

生活苦から逃れようとして、ついに彼は誘いのあったカッセル宮廷への異動を考え始めます。ウェストファリア王ジェローム・ボナパルト(あのナポレオンの弟)が彼に「宮廷楽長」として高額(600ドゥカート)の年金の支給をオファーしてきたからです。

 

ベートーヴェンのカッセル宮廷への転職計画に驚き、それを思い止まらせたウィーン貴族が3人いました。ルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵、そしてキンスキー公です。取りまとめ役はルドルフ大公でした。彼らが拠出した年金総額は、残された契約書には3者合計で4000フローリン。現代日本の通貨価値にすると5000万円を下らない金額です。

 

ルドルフ大公はベートーヴェンの終生の友であり、パトロンでした。ベートーヴェンより18歳若いルドルフ大公に献呈された曲はいずれも大作揃いです。『ピアノ・ソナタ第二六番(変ホ長調)』(「告別」、Op81a)、『ピアノ三重奏曲第七番(変ロ長調)』(「大公」、Op97)、『ミサ・ソレムニス(ニ長調)』(Op123)など後期の傑作が多いです。

 

ベートーヴェン最晩年の大曲『ミサ・ソレムニス』は、ルドルフ大公がモラヴィアのオロモウツの大司教に就任したお祝いとして作曲されましたが、あまりに熱を入れすぎてしまい、就任式には間に合わず、結局その完成にさらに3年を費やすことになりました。ルドルフ大公から受け取っていた年金は、先に触れた契約書では1500フローリンです。

 

ロプコヴィッツ侯爵もベートーヴェンにとって重要なパトロンでした。彼が契約書にサインしている額はルドルフ大公の約半額、700フローリン。ロプコヴィッツ侯爵に献呈された曲にも傑作が多いです。

 

ベートーヴェン初期の6つの弦楽四重奏曲(Op18-1~6)、交響曲では、『第三番』(「英雄」、Op55)、『第五番』(「運命」、Op67)、『第六番』(「田園」、Op68)、中期の『弦楽四重奏曲第10番(変ホ長調)』(「ハープ」、Op74)、そして『ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲(ハ長調)』(Op56)などがそれです。

 

ボヘミア出身の名門貴族フェルディナント・キンスキーは、ベートーヴェンへ最も多額の年金(1800フローリン)を支給していたパトロンでした。エステルハージ公からの委嘱で作曲された『ミサ曲(ハ長調)』(Op86)は、エステルハージ公の気に入るものとはならず、出版譜はこのキンスキー公に献呈されています。

 

しかし、ナポレオンのプロイセン・オーストリア侵攻で、激しいインフレが起こり、ウィーンの貴族たちの中には破産する者も現れ始めます。ロプコヴィッツ侯爵もその1人で1812年にべートーヴェンへの年金支払いが不能となってしまったのです。

 

キンスキーがプラハ郊外で落馬事故で死亡したこともあって、ベートーヴェンの収入は激減します。そうした不運が重なり、ベートーヴェンはロプコヴィッツ侯爵を「年金不払い」の廉で訴え、有利な判決を得ています。

 

これら3者と交わした契約書には、年金給付に対してベートーヴェンに課せられた義務として、3人の貴族たちの住むウィーン、あるいはオーストリア皇帝の支配地の市に居住すること、そして仕事あるいは芸術振興の目的で一定期間当該地を離れる場合、これら3者に出発の予定を伝え、許可を得ることが必要、と明記されていました。

 

ベートーヴェンのパトロンたちは、大司教の座に就いた者もいたとはいえ、基本的に教会音楽への貢献を求めることのない、自身が音楽を趣味とし、音楽の振興に強い関心を持つウィーンやボヘミアの土地貴族でした。

 

そしてピアノや作曲をベートーヴェンを師として学んでいた生徒でもありました。したがって、経済的・社会的上下関係としてはパトロンでしたが、芸術分野での教育に関しては師弟関係にあった人物ということになるのです。

 

みなさんは死ぬときに、どのような死に方をしたいですか?

 

たとえば、モ-ツァルトのようにですか・・・それともベ-ト-ヴェンのようにですか・・・

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