「そして男は時計を捨てた・・・」にようこそ!

 

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「そして男は時計を捨てた・・・」を今後も末長くご愛読ください😉 by ひとり編集長




歴史

トホホ😢大統領なんかならなきゃよかった・・・

ジョン・F・ケネディはキューバ危機などに対応した大統領として有名です。若さと人気を武器にして、史上最年少となる43歳で当選しました。しかし、そんな彼も「愚痴」をこぼしていたのです。

 

もし・・・大統領の仕事がこんなにキツイと知っていたら・・・

大統領なんかならなきゃよかった・・・😢

 

なぜ?

◎ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ 1917年-1963年。

アメリカの第35代大統領。史上初となるカトリック系の大統領。アメリカの威信回復を目ざして、「ニューフロンティア精神」を提唱し、キューバ危機などに対応した大統領として著名。在任中、ダラスで暗殺された。

 

史上最年少となる43歳でアメリカ大統領に当選したのが、ケネディ。(ちなみに、史上最年少の大統領はケネディではない。42歳と322日で大統領となったセオドア・ルーズベルトである。ただし、彼は大統領の暗殺に伴い、副大統領職から繰り上がりで大統領になったのであり、選挙で当選したわけではない。)・・・

 

前任のアイゼンハウアー大統領の下で副大統領を務めてきたニクソンという強敵を破り、若さと人気を武器にアメリカを率いることになったケネディ。しかし、その彼が、かつて大統領候補者選びのための選挙(民主党予備選)で争ってきたライバル議員に向かって、こう言った・・・

 

「大統領の仕事がこんなにキツイと知っていたら・・・。あなたに勝つんじゃなかった・・・」

つまり、「大統領になんかなるんじゃなかった・・・」という愚痴。彼にいったい何があったのでしょうか?

 

この当時、アメリカは「キューバ危機」に揺れていました。この頃、世界はアメリカを中心とする西側諸国とソ連を中心とする東側諸国がさまざまな面で対立を繰り広げた「冷戦」の真っ只中にあったのです。その時、アメリカの目と鼻の先にあるキューバに、ソ連がミサイル基地を建設しているという情報が入りました。キューバには、カストロらの手によって社会主義国家が樹立されていたのです。

 

国土のすぐそばにミサイル基地が建設されたら、わき腹にピストルを突きつけられて生活するようなものです。基地建設の情報を得たケネディは、海上を封鎖しミサイルの搬入を阻止しました。しかし、ソ連はそれを「主権の侵害だ!」と激しく抗議。米ソの緊張は最大限に高まり、核戦争まで「あと一歩」とささやかれたのです。

 

矢面に立ったケネディは、臨戦態勢を整えながら、議会にも協力を求めました。この頃の彼は、いつもの自信満々の笑顔ではなく、少しやつれたように見えていたといいます。そして、この時、大統領選挙も終わり今や同じ党の仲間に戻った元ライバルに対し、そっと述べたのがその言葉だったのです。

 

しかし、仲間内では弱音を吐きつつも、外交上の脅威に対しては一歩も引かなかったケネディは、ソ連に対して強い態度を示しながらも、密かに外交交渉も進めていました。そしてついにソ連は「アメリカがキューバへ侵攻しないこと」を条件にミサイルの撤去に同意。間一髪、キューバ危機は回避されたのです。

 

かつてのライバルに愚痴を漏らすほど精神的に追い詰められながら、無事にアメリカと世界を救ったケネディ。その後の活躍が大いに期待されたのですが、それからわずか1年後に凶弾に倒れてしまったのです。まだ46歳の若さでした。

 

「なんで俺が行かなきゃならないんだよ!」😤😤

ジョンソンはこう言いました・・・

なぜ?

 

◎リンドン・ベインズ・ジョンソン 1908年-1973年。アメリカ、テキサス州の生まれ。教職などを経て、29歳で下院議員に当選。55歳で第36代大統領に。ベトナム戦争に介入して北爆を強行したことで、世論の反発を集めた。61歳で任期満了となり、政界を引退した。

 

ケネディが史上最年少で大統領となった時の副大統領がジョンソンです。ケネディよりも9つ年上で、副大統領に就任した時は53歳でした。

当時は、東西冷戦の真っ只中。キューバ危機よりも先に問題となったのが、ドイツ、とりわけ首都の「ベルリンの壁」問題でした。

 

第二次世界大戦後、ドイツは東西2つに分けられました。同時に首都ベルリンも東西に分けられましたが、ベルリンのまわりはすべて東ドイツの領域。つまり西ベルリンは東側陣営に囲まれた西側陣営の飛び地のような形になっていたのです。

 

ドイツが東西ドイツに分かれて独立すると、西側は徐々に発展を遂げましたが、東側は政権が国民を抑圧し生活水準も上がらずにいたのです。やがて東ドイツから西ドイツへと逃亡する国民が続出。ベルリンでも東ベルリンから西ベルリンへと脱出を試みる国民が増えていったのです。

 

そこで東ドイツは、ベルリンの東西を分ける交通路に鉄条網を張り巡らせました。それは装甲車や銃を使った力ずくの封鎖でした。1961年8月、ケネディが大統領になって7カ月ほど経った時のこと。当時、周囲を封鎖された西ベルリンの人々は、積極的な対応をとらないアメリカに不満を募らせていました。

 

そこで、ケネディは、西ベルリンにジョンソンを派遣することにしたのです。孤立を募らせる西ベルリンに大量の軍隊を派遣し、西側諸国の結束を見せつけることにしたのです。

 

しかし、ベルリンは、東ドイツの只中にある飛び地です。軍隊が安全にそこまでたどり着けるのかもわかりません。東ドイツ側も武器を用意し、一触即発の状態になっています。

 

「(そんな危険なところに)なんで俺が行かなくちゃならないんだよ!」

ジョンソンはついに愚痴をこぼしました😢

 

しかも、命令しているのは、自分より9つも年下の男です。

とはいえ、命令は断れない・・・政治的な使命を自覚してもいたはず。結果、ジョンソンは無事務めを果たし、西ベルリンに部隊を派遣することに成功したのです。

 

その翌年はキューバ危機があり、明けて1963年6月、ケネディは西ベルリンを訪問。

「私はベルリンの一市民である」

という演説を行い、当地の市民たちの厚い信頼を獲得したのです。ひょっとすると、ジョンソンにしてみれば、「一番危険な時に現地で活躍したのは自分なのに・・・。アイツにおいしいところを持っていかれた!」という気分だったかもしれません。

 

その演説からわずかに5カ月後。ケネディは凶弾に倒れ、ジョンソンが大統領に昇格したのです。東西の冷戦は、それから四半世紀以上も続くことになります。

 

「死ぬのも楽じゃない・・・」😢

皇帝ナポレオンはこう呟きました・・・

なぜ?

 

◎ナポレオン・ボナパルト 1769年-1821年。フランスの軍人、皇帝。フランス革命後、国民兵として台頭。やがてクーデターを起こし政権をつかみ、のちに皇帝となる。一時ヨーロッパを席巻したが、やがて敗戦。絶海の孤島で没した。「ナポレオン法典」の制定でも有名。
英雄の代名詞ともされるナポレオン。彼の人生は栄光と挫折の繰り返しだった・・・

 

コルシカ島の小貴族の家に生まれた彼は、フランス革命が起きた段階では、まだ一介の兵士にすぎませんでしたが、やがてイタリア遠征などで頭角を現し、最終的には皇帝の座に上り詰めます。

 

数々の戦勝によってヨーロッパの多くを手中に収めたナポレオンでしたが、ロシア遠征に失敗すると、徐々に状況は悪くなりました。やがて諸国民戦争に敗れた彼は皇帝の座から降ろされ、エルバ島へと流されることとなります。その時、ナポレオンはまだ45歳。政治家として軍人として、まだまだ働き盛りの年齢でした。

 

権力も財産も、すべてを奪われた彼の胸元には、小さな絹の袋が下がっていた。それは毒薬。

 

配流地エルバ島行きを目前に控えたある夜、ナポレオンは、ついにその毒薬を口にしたのです。

激しい痛みが彼を襲います。愛する妻への手紙を側近に手渡すと、痛みは一層強くなりました。その時、彼の口から出たのが

「死ぬのも楽じゃない・・・」

 

かつてのナポレオンは、軍事の天才としての名声をほしいままにしていました。少々大げさに表現するなら、多くの戦いは英雄にとって「楽勝」ものでした。しかし、ロシア遠征に失敗してからは、立て続けに敗戦を経験。戦争に従事することは彼にとって「楽なこと」ではなくなっていました。

 

政治家としてもナポレオンはいくつかの功績を残しました。法律を整備し、「ナポレオン法典」の名が刻まれました。もはや政治は彼の意のままだったのです。しかし、戦争に敗れた後は、すべての政治的権力を奪われてしまいました。政治家の地位に安住することはできなくなってしまったのです。

 

そんな彼が、唯一手にすることのできた自由。その自由こそが自分の意志で死を選ぶことだったのです。

しかし、死に至る道は楽ではありませんでした。激しい腹痛、嘔吐に長い時間悩まされました。ナポレオンの愚痴をもう一度読み返してみます。

 

「死ぬのは楽じゃない」ではありません。

 

「死ぬのも楽じゃない」なのです。敗戦と失脚を経験した彼にとって生きることは辛いことの連続だったのです。しかし、死に至ることは、それに匹敵するくらいの苦痛であることを彼はこの時はじめて知ったのです。その後、結局蘇生し、服毒自殺は失敗に終わります。

 

やがて、エルバ島に流された彼が選んだのは、「死」ではなく、「生」でした。エルバ島を脱出し、再び、権力の座に就こうとしたのです。結果は「百日天下」に終わりますが、死出の旅に失敗し愚痴をこぼした45歳のナポレオンは、この時、

「もう一度、ひと花咲かせよう・・・」

と心に決めたのでしたとさ👍

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