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歴史

カラヴァッジョのこじらせ人生と投獄と脱獄と・・・

イタリアのバロック期を代表する画家でありながら、傷害や恐喝、ついには殺人まで犯し、逃避行の中で鬼気迫る作品を描き続けたカラヴァッジョ。逃げれば逃げるほど、ケンカをすればするほど絵画に思わぬ迫力が生まれることを私たちは発見するのです・・・

 

カラヴァッジョは、光と闇の画家です。わずかな光と膨大な闇で鑑賞者を魅了します。

 

描かれている作品のすべてがまるで彼自身をモデルにしているように感じられるところも非常に興味深いのです。それは技術的に優れているというよりは、生々しいリアリティに灯る魅力。

 

彼は、イタリアのバロック期を代表する画家でありながら、傷害、器物破損、恐喝で裁判沙汰を起こし、少年愛を告発され、さらに殺人まで犯しています。投獄と脱獄を繰り返して、逃避行の中で鬼気迫る作品を描き続けたのです。まさに彼自身が劇的な絵画空間を生きた男だったのです。

 

1606年、カラヴァッジョは、知人のラヌッチョ・トマッソーニという男を剣で刺し殺しました。「賭けテニス」をしていた時に負けてしまい、得点について口論となりカッとなって刺したのです。当時禁じられていた決闘を隠ぺいするためのカモフラージュだったのかもしれません。賭けた金額は、わずか1スクードと言われています。

 

スクードとは16〜19世紀まで使われていたイタリアの通貨です。当時依頼された絵画の支払いが200スクード程度だったことを考えれば、1万円程度の遊びの賭けだったのではないでしょうか。わずかな金額の賭けで殺人を犯したカラヴァッジョが400年後、イタリア紙幣の肖像画になるなんて誰が想像したでしょうか?

 

死刑宣告を受け、指名手配されたカラヴァッジョはローマから逃亡します。ローマの司法権では罰せられないナポリでパトロンとなる貴族を見つけることに成功しますが、ここでも再びケンカをしてしまい、相手に重傷を負わせてしまいます。そのため、マルタへ逃げながら、次々と傑作を描いたのです。それでもカラヴァッジョはケンカを続け、あげく投獄と脱獄を繰り返し逃げ続けたのです。

 

残酷な場面を描いたカラヴァッジョの絵画は、まさに彼自身の体験がモチーフとなっているのかもしれません。逃げれば逃げるほど、ケンカをすればするほど絵画に迫力が生まれることを彼自身が発見してしまったのかもしれないのです。写真がなかったこの時代、彼は人を斬った後も、まじまじと血が流れる様子を観察していたのかもしれません。剣のひと振りがカラヴァッジョのスケッチだったのです。

 

もしかするとカラヴァッジョは、2次元の世界で描いた残酷な世界と、3次元の現実世界の区別がついていなかったのかもしれません。描いた作品の登場人物は、すべてカラヴァッジョ自身であり、絵画というドラマチックな劇場空間の中で彼は生きていたのかもしれないからです。

 

そう、カラヴァッジョは、生涯で一枚も自画像を残さなかった人物です(画家のオッタヴィオ・レオーニが描いた彼の肖像画は残されている)。

 

そして、作品に登場する男は、いつも同じ顔です。大きな目、二重のまぶた、眉毛は濃く、目の色は黒、鼻は低い。ほとんどが同じ男に見えるのです。

 

当時、モデルを雇うお金がなかったために自分を見て描いた、という説もあります。代表作「果物籠を持つ少年」も「病めるバッカス」もなぜか彼自身の顔にそっくりです。

 

カラヴァッジョの作品は、すべてが鏡のように彼の心の内側を映し出した「表裏一体の絵画」と考えると納得できます。

 

カラヴァッジョは、最晩年に「ゴリアテの首を持つダビデ」を描きました。旧約聖書に登場するダビデが巨人ゴリアテを倒し、その切り落とした首を持つ場面です。切り落とされたゴリアテの頭部は、まさにカラヴァッジョ自身の自画像といえます。大きな悲しみを浮かべた目と観念したような半開きの唇。自らの死を彼は予言したのです。

 

そんなゴリアテの生首には、慈悲深く優しいスポットライトが当たっています。カラヴァッジョは、血と暴力に彩られた生き方を自らが実践していくことで「真のリアリズム」を手に入れ、最高傑作を完成させることができたのです。

 

カラヴァッジョは、1610年7月、ナポリからローマへと向かう途中でお尋ね者の山賊と間違えられて逮捕され、釈放後おもむいたトスカーナ地方の港街ポルト・エルコレの海岸で7月18日に亡くなりました。38歳の生涯でした。

 

死因は病死とも、鉛中毒とも言われていますが、マルタ騎士団による暗殺だったという説もあります。いずれにしても、長いあいだ闇の中を歩き続けたカラヴァッジョ最期の場所が地中海の光に溢れた海岸だったというのは、何とも皮肉な話です。

 

1571年、カラヴァッジョはミラノで生まれました。父は侯爵家に仕える執事で、土地や財産を持っていました。しかし、彼が6歳の時、ペストが大流行します。父、祖父、叔父が相次いで死んでしまい、少年カラヴァッジョは、借金を抱えた母を助けるため、12歳から細密描写が得意なミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノに師事し、絵画の勉強をはじめたのです。当時人気があった画家のジローラモ・サヴォルドやレオナルド・ダ・ヴィンチの絵からも光の効果や静物画の技術を学びました。

 

しかし、19歳の時、最愛の母が亡くなってしまいます。彼は絶望しました。ここからカラヴァッジョの暴走がはじまります。弟、妹と母の遺産を分けると、彼は家族を捨てローマに旅立ったのです(何らかの傷害事件を起こしたから、という説もあります)。

 

読書が好きなおとなしい少年は、感情が激しく粗暴な性格になっていきました。社会性に乏しく性格はひねくれ、自信過剰で自己中心的、皮肉屋であらゆる画家の悪口を言っていたといいます。実際に1603年、ライバルの画家ジョヴァンニ・バリオーネを誹謗(ひぼう)中傷する詩を公表し、名誉毀損で訴えられています。もしカラヴァッジョが現代人だったら、SNSで発言が大炎上するようなタイプの男だったかもしれません。

 

カラヴァッジョは2週間絵を描くと、1、2カ月ほど酒場を渡り歩きケンカに明け暮れるという日々を送りながら、次々と傑作を生み出します。家族や安定した生活を失った代わりに、超絶技巧の画力を身につけたのです。

 

いつしかカラヴァッジョは、光を自在に操る画家となります。肌の質感、表情、感情までもリアルに浮き上がらせるその天才的なライティングセンスは、現代の映画や写真にも影響を与えているのです。

 

人物の左斜め上から強いライトを当て、影を強調する演出は、物語やモチーフに強いインパクトを付けたい時に使われます。暗いスタジオでスポットライトを人物に斜めに当てると、顔も体も半分が影になるので、被写体の印象が強くなるのです。カラヴァッジョが生み出したこの照明術は、現在でも映画やスチール撮影におけるライティング技法のひとつとなっているのです。

 

この技法は、一般的には「レンブラント・ライト」と呼ばれています。17世紀オランダの画家レンブラント・ファン・レインが、カラヴァッジョの影響でこの明暗法を確立したのです。

 

映画『ゴッドファーザー』でマフィアのボス役、マーロン・ブランドが登場するシーンは、ブランドを真上から照らすレンブラント・ライトで有名です。それほどまでに多くの芸術家が彼の影響を受けたのです。このようなカラヴァッジョ風の絵は「カラヴァッジェスキ」と呼ばれています。

 

オランダのレンブラント、フェルメール、スペインのベラスケス、フランスのラ・トゥール。実は、みんな「カラヴァッジョ・チルドレン」なのです。その光の系譜は、現代の画家にも脈々と受け継がれています。

 

まさに、美術史における光の系譜は、カラヴァッジョから始まっていくのです😊。

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