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歴史

なぜ、東京が「首都」になったのか?

現代の日本人で東京が首都であることを疑わない人間を探すことは不可能でしょう。それだけ、当たり前のことであって、そこに疑問の余地を挟むことなどできない事実として認識されているはずです。

 

しかし、実際には東京が首都となった確固たる証拠は存在していないのです。では、どのようにして東京は首都になったのでしょうか?また、なぜ千年以上も都とされていた京都ではなく、東京が首都として選ばれたのでしょうか?

 

東京が事実上、首都となった瞬間・・・それはいつだったのか?慶応4年7月17日(1868、9月8日より明治に改元)、江戸を東京と称して都と定める東京奠都(てんと)の詔が出され、明治2年3月28日、明治天皇と当時の政府である太政官が京都から東京に移り、東京城が皇城とされました。これらの経緯をもって、東京遷都としています。

 

しかし、政府からの公的な声明(法令、布告、布達)がなく、平安遷都のような詔もありません。東京遷都とは暗黙の了解であって、既成事実のようなもので、摩訶不思議でありますが実は公式には首都でないのです。

 

ところで、東京「遷都」、一方で東京「奠都(てんと)」という呼称も存在します。一体どちらが正しいのでしょうか?

 

「奠都」とは都を定めることであり、それに対して、「遷都」とは都を移すことを意味しています。天皇や政府が移動をするという実態を伴えば、同義語のように扱うことも可能ですが、「遷都」の場合はそれまでの都を廃止する意味合いも持っています。こう考えると、京都が都ではなくなり旧都とされた事実はなく、東京遷都は東京奠都とする方がより実態に即しているようにも感じられます。

 

つまり、京都は依然として都であることを否定されぬまま、「遷都」より「奠都」がより適切な表現かもしれません。一方で、京都が政府機関の設置場所である首都にはならなかったために、「奠都」よりも「遷都」が実態を正確に表現しているといえます。

 

遷都論そのものの変遷、江戸時代中期から後期にかけて、例えば、国学者の賀茂真淵や経世家の佐藤信淵が江戸を意識した遷都論や二都論を唱えていました。幕末以降の遷都先として、当初は江戸ではなく大坂が最有力候補として検討されていたのです。そして、最初に遷都を言い出したのは尊王志士でした。福岡藩士の平野国臣は文久2年(1862)4月に著した「回天三策」において、次のように述べます。

 

大坂滞在中の薩摩藩の最高権力者の島津久光に勅命を与え、大坂城、彦根城、二条城を草莽義挙によって攻め落させ、久光は司令官として入京の上、幕吏を追い払って青蓮院宮(中川宮)の幽閉を解き、大坂城に玉座を奉じさせる。孝明天皇は東国の親征に向かい、箱根にて将軍家に罪を糺して諸侯の列に貶(おとし)め、抵抗する時は武力によって成敗する・・・

 

正確に言えば、遷都論ではなく、親征行幸であり倒幕に向けた戦略論。

 

久留米藩士の真木和泉は文久3年(1863)7月に著した「五事献策」において、遷都とは明言していませんが、遷都論として重要である大事業をなすため、「旧套(きゅうとう)」(古くからの形式や慣習)を脱する必要があり、そのため従来の居を離れる必要がある・・・そして、大坂は天下の要地で商業・流通の中心であり、諸侯を制御するために便利である。何より、「夷狄御(いてきぎょ)する」(攘夷実行)ために大坂は利がある・・・として、大坂遷都論を展開しました。

 

では、幕府においてはどうだったのでしょうか?慶應3年(1867)10月14日、将軍徳川慶喜は大政奉還を朝廷に申し出ました。その段階で、西周(あまね)が江戸から大坂に首都機能を移して、大君(将軍)を元首とした公府を大坂に置くことを提案しています。まさに江戸から大坂に政府(幕府機構)を移転する大坂遷都論を展開しましたが、新政府の樹立に伴い、その構想は実現に至らなかったのです。

 

幕府に対抗する薩摩藩や長州藩においても、遷都論は活発でした。同時期に薩摩藩士伊地知正治の「浪華遷都論」があり、これが大久保利通にそのまま引き継がれることになります。その直前に、薩摩藩士で文久期の島津久光四天王(他に小松帯刀・大久保利通・中山中左衛門)の一人、伊地知貞馨(堀次郎)による大和(奈良)、長州藩士品川弥二郎・世良修蔵による伏見桃山などが遷都先として候補に挙がりましたが、個人的レベルの域を出なかったのです。その、伊地知正治の浪華遷都論とは・・・。

 

伊地知は、京都は土地が偏っていて狭い上、人気(土地の気風)が狭苦しいと京都を批判し、そうでない大坂を推薦しています。そして、世界各国の「王都」と比較して、宮殿(皇居)の規模も意識します。伊地知は海外渡航の経験はないものの、薩摩藩の留学生から海外の情報を得て、それを基に発言していると推察されます。

 

伊地知は「王都」と表現し、首都とは表現していません。これは単に政治的な中心都市ではなく、国王が居住し、かつ政治の中心となっている都・帝都を想定しているからです。将来の海外進出を意識して、それに適した地であることを希望し、海に面した大坂を推しているのです。

 

伊地知は、ありとあらゆる因循(いんじゅん/旧例にこだわって改革をしないこと)から脱却するためには、京都を離れることが必須であるとし、どうしても遷都が必要との発想から、この遷都論を展開したのです。

 

大坂はご存じの通り、江戸時代を通じて天下の台所として富の集積がありました。さらに海運が発達して、商業・流通の中心として存在し、海に面して外交にも利便性が抜群であることが、当時は大きな魅力として映ったのです。

 

明治新政府のスタートにあたり、遷都がなぜ必要であったのでしょうか?

 

実際の政治を動かしていたのは下級公家の岩倉具視、官位を持たない藩士である大久保利通、西郷隆盛、木戸孝允、後藤象二郎、大隈重信などでしたが、彼らが実権を執るためには、天皇と直結する必要があったのです。

 

それには、中間にいる特権階級の上級廷臣(公家)を排除しなければならなかった・・・慶應3年12月9日(1868年1月3日)、王政復古クーデターによって徳川慶喜の将軍職辞職の勅許、幕府の廃止、新たに総裁・議定・参与の三職を置くことを決めましたが、実は同時に宣言された摂政・関白の廃止は極めて重要です。

 

朝廷において、絶対的な権力者は摂政または関白でした。そのポジションには、摂関家しか就くことは許されなかったのです。三条実美はそれに次ぐ清華家でしたが、その差は埋めることが不可能なレベル・・・😢下級公家の岩倉に至れば、その身分差は言わずもがな・・・😢ちょっとでも頭角を現そうものなら、失脚を余儀なくされてしまいます。和宮降嫁運動における岩倉がその好例。摂関制の廃止は、岩倉や三条にとって活躍のための絶対条件。しかし、それでも問題が残りました。廷臣には官位の壁があり、岩倉たちの官位上昇が期待されたのです。

 

一方で、藩士にとっても大きな難問がありました。彼らは藩に帰属しており、藩主の存在は絶対でした。諸侯にとって、藩士はあくまでも家臣であり、例えば開明派と言われた松平春嶽でさえ、家臣が新政府会議で廷臣たちと同席することを「未曾有の珍事」とするなど、大久保たち藩士レベルのコミットを不愉快に思っていたのです。

 

新政府に出仕した藩士というのは、徴士として藩から新政府へレンタルされた存在に過ぎなかったのです。藩士が官位を得始めるのは主として明治2年以降です。諸侯と藩士の完全な上下関係の解消は、明治2年(1869)の版籍奉還、そして明治4年(1871)の廃藩置県を待たなければならなかったのです。

 

また、自分たちの権力の源泉である明治天皇について、彼らが実権を執るには、天皇と直結する必要があったのですが、天皇の在り方を変えた上で、自分たちに近づけたいと考えました。天皇親政のためには、天皇は見える存在であり、積極的かつ能動的なヨーロッパの皇帝のような君主に育てる必要があったのです。

 

これらを解決するためには、どうしても新政府を京都(公家社会)から完全に切り離さなければならなかったのです。つまり、どうしても遷都が必要だったのです👍

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