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世界

なぜ、「ビンラディン」はいまも英雄視されるのか?

新月の前夜・・・折からの停電がかさなった漆黒の闇の中、米軍特殊部隊の精鋭はヘリコプターから垂らされたロープを伝って高い塀に囲まれた3階建ての豪邸に降下していきました・・・

 

作戦名は「ネプチューン・スピア(海神のやり)」。パキスタン北部アボタバードに潜伏するコードネーム「ジェロニモ」と呼ばれるテロリストの殺害が目的でした。2011年5月2日未明のことです。

 

ターゲットの実名はオサマ・ビンラディン。複数の民間航空機をミサイル代わりに使ってアメリカの中枢を破壊し、世界を震撼させた2001年9月の米同時多発テロの首謀者でした。

 

その空前絶後の惨劇から2021年でちょうど20年目を迎えました。

 

世界一の大国アメリカに無謀にも戦争を仕掛けたビンラディンという男はいったいどんな人物だったのでしょうか?そして事件の裏に隠れた真相とは何だったのでしょうか?

 

「彼(ビンラディン)のすぐ側の棚に銃があった。危険な状況だ。彼が自爆しないよう、私が頭を打ち抜く必要があった――そして額に向けて2発撃った。バン!バン! 2発目で彼は倒れていった。それからベッドの前の床に倒れたところにさらにもう一発、バン!彼は死んだ。動かず、口から舌が出ていた」

 

隠れ家に突入しビンラディンを射殺した米海軍特殊部隊元隊員は2013年に沈黙を破って、殺害の瞬間の模様を米エスクァイア誌のインタビューでそう語っています。遺体は米軍のDNA鑑定によってビンラディン本人と確認されたといいます。

 

同日、米空母カール・ビンソンで水葬の儀式が行われ、ビンラディンの遺体はアラビア海に沈められました。アメリカ政府はその理由を埋葬場所が見つからなかったからとしていますが、恐らくイスラム過激派による遺体の回収や埋葬された場所がテロリストの聖地になることを恐れたのかもしれません。アメリカ政府は遺体の映像を一切公開しないと決めています。

 

世界で最も恐れられた男の姿はこうしてこの世から消え去りましたが、彼の生い立ちは、私たちがよくイメージする貧困や差別から生まれたテロリストとはまったく異なるものです。

 

1957年3月10日、ビンラディンは建設業で財をなしたサウジアラビア有数の富豪の一族として生まれました。その後、敬虔なスンナ派のイスラム教徒の父の下で育てられ、首都リアドに次ぐ大都市ジッタの一流大学に進学。経済学や経営学を学んでいます。

 

宗教上の理由からか音楽や映画を好みませんでしたが、サッカーが大好きでイギリスの名門プロサッカークラブ・アーセナルFCのファンだったといいます。戒律の厳しい母国を抜け出してはレバノンの首都ベイルートにある派手なナイトクラブやカジノに頻繁に出没し、190センチを超える長身で甘いマスク。女性とも遊び、酒も飲んだといいます。

 

つまり、人もうらやむような典型的なエリート富裕層の若者だったのです。そのまま父の仕事を継いでいれば、大金持ちの経営者として自由気ままな人生を送れたのかもしれません。

 

しかし、信心深い父の影響もあり、ビンラディン青年はいつしかイスラム同胞団の理論的指導者だったエジプトの作家サイイド・クトゥブの思想に感化されていったのです。

 

クトゥブは反世俗主義、反西洋文明主義者でした。イスラムの教えのみが真の文明社会を実現できると信じてイスラム社会の建設を訴えました。同時に「堕落した」物質主義のアメリカを痛烈に批判していたのです。この考え方がその後ビンラディンが突き進む「ジハード(聖戦)」の思想的原動力になったのです。

 

そんな彼の人生に大きなターニングポイントが訪れます。1979年のソ連軍のアフガニスタン侵攻です。第2次大戦後初めての非イスラム勢力によるイスラム国家の占領はアラブ世界を震撼させ、ビンラディンの闘争心をさらにかき立てました。

 

「私は怒りに燃え、ただちにアフガニスタンに向かった」。その頃を振り返って彼はアラブ人ジャーナリストにそう語っています。

 

憤慨したビンラディンは、ソ連軍に抵抗する「ムジャヒディーン(ジハードを遂行する戦士)」に資金援助をするだけでなく、活動拠点をアフガニスタンに移しさらに、彼自身も戦闘に参加するようになりました。

 

アフガニスタンで共に戦ったパレスチナ兵士はビンラディンのことを「恐れを知らない男」だったと記憶しています。

 

「彼は我々の英雄だった。常に最前線で戦い、いつも誰よりも先を行った。資金を提供してくれただけでなく、彼自身を我々のためにささげてくれたのだ。アフガン農民やアラブの戦士と共に寝泊まりし、一緒に料理を作り、食べ、塹壕(ざんごう)を掘った。それがビンラディン流のやり方だった・・・」

 

1988年には、ソ連撤退後も世界各地でジハードを展開するため、同志とともに国際テロ組織「アルカーイダ」を設立。翌年2月にソ連がアフガニスタンから撤退したことで、「強大な超大国を倒した英雄」としてその名をアラブ世界でとどろかせるようになったのです。

 

1990年、サダム・フセイン大統領率いるイラク軍が隣国クウェートに侵攻し湾岸戦争が勃発した際には、メッカとメジナというふたつのイスラムの聖地があるサウジアラビアに米軍の駐留を認めたサウジ王家を「背教者」と手厳しく非難し、さらに過激な反米活動へと傾斜していきました。

 

サウジ王家から国外追放されたビンラディンはスーダンに拠点を移し、持ち前の優れた交渉力で各地のイスラム戦線との関係を強めて「アルカーイダ」を国際テロ組織へと発展させていきます。パキスタンの軍統合情報局(ISI)によれば、ビンラディンは最盛期には少なくとも30の異なるテロ組織とアライアンスを組んでいたといいます。

 

1992年12月には米軍が滞在していたイエメンのホテルを爆破。翌年2月には同時多発テロの序章となった手製爆弾によるニューヨークの世界貿易センター爆破(6人死亡)など、宿敵アメリカに対する「報復」をさらに活発化させていったのです。

 

とりわけ、銃撃戦によって19人の米兵を殺害し、2機の米軍戦闘ヘリ「ブラックホーク」を撃墜した1993年のソマリアの首都モガディシュでの戦闘は、ビンラディンにとって大きな勝利の瞬間でした。

 

彼はよほどうれしかったのか、イギリスのインディペンデント紙の記者に次のように語っています。

 

「(ソマリアでの)米軍の士気は驚くほど低かった。そして我々はアメリカがペーパータイガー(張り子の虎)にすぎないと確信した・・・」

 

再びアフガニスタンに戻ったビンラディンはタリバン政権の庇護を受け、最高指導者ムハンマド・オマルと親密な関係を築いて、1998年にはタンザニアとケニアの米国大使館をほぼ同時刻に爆破。アメリカ人12人を含む229人を殺害しました。

 

さらに、2000年10月にはアメリカ海軍駆逐艦「コール」に自爆攻撃を仕掛け17人の水兵を殺害しています。

 

そしてついにその日はやってきます。2001年9月11日の米同時多発テロです。テレビ中継されたその想像を絶する光景は全世界に激しい衝撃を与えました。この日を境に世界の景色は変わったのです。

 

激しく炎上し轟音とともに崩れ落ちたニューヨークの世界貿易センタービル・・・無残に突き破られたバージニア州アーリントンの国防総省本庁舎(ペンタゴン)・・・。ハイジャックされ米議会議事堂に向かう途中で犯人と乗客がもみ合いになりペンシルベニア州で墜落してバラバラになったユナイテッド航空93便の残骸・・・。

 

19人のテロリストを含む3000人近く(日本人24人)が死亡し、2万5000人以上が負傷するという大惨事でした。

 

それにしても乗客が乗った民間航空機でアメリカの軍事、政治、経済の中枢を攻撃するという空前絶後の作戦はどのようにして発案されたのでしょうか?

 

実は事件発生の数年前、アルカーイダ幹部のハリド・シェイク・ムハンマドとビンラディンがひそかに構想を話し合っていたことが明らかになっています。

 

93年2月に地下駐車場で手製爆弾を爆発させて世界貿易センタービルを倒壊させようとしたが失敗しました。そこでムハンマドは燃料を満タンに積んだ飛行機をミサイル代わりにして複数の標的に突っ込ませる方法を思いついたといいます。当初の計画は、アジアで11機の旅客機をハイジャックして、米本土を狙うシナリオだったというので、もし実行されていたら?と思うと背筋が寒くなります。

 

ビンラディンもその計画に賛同し、留学生を装った実行犯をアメリカの飛行訓練学校に送り出して周到に準備を進めました。そして前代未聞の同時多発テロが実行に移されたのです。

 

一方、ビンラディンは事件後程なくして「私はこの行為をやっていない」との声明を発表して関与を否定し、姿を消しました。

 

米政府の必死の捕獲作戦でもビンラディンは見つからず、一時は死亡説も流れました。捜索は2009年にオバマ政権に移った後も続きます。そしてついにハリド・シェイク・ムハンマドを逮捕し、拷問の末にビンラディンの隠れ家を特定したのです。

 

ビンラディン殺害の一報はアメリカのCNNニュースによって伝えられ、オバマ大統領は深夜の時間帯に異例の記者会見を開いて“Justice has been done(正義はなされた)”と宣言しました。首都ワシントンのホワイトハウス周辺やニューヨークのワールドトレードセンター跡地には数千の群衆が集まり歓喜の声を上げました。

 

ビンラディンの亡きがらは誰の目にも触れることのできない海の藻屑として消え去りました。しかし、彼のアメリカに対する執拗(しつよう)な「聖戦」のインパクトは多くの若いイスラム教徒の間でレガシーとして受け継がれているのです。

 

「オサマ(ビンラディン)に対してアメリカが憎悪をあらわにしたとき、イスラム世界では反対に彼に対する愛着が強まった。大多数のイスラム教徒の若者たちはオサマを彼らのヒーローだと思っている。彼がどこにいようと、彼を愛する人々の数は減らないだろう・・・」

 

パキスタンの新聞は社説でそう書きました。その証拠に、イスラム教徒の間では新しく生れた子供に「オサマ」という名をつける夫婦が劇的に増えたのです。

 

同時多発テロ事件から20年になるのを前に行われた米ABCテレビとワシントン・ポスト紙の世論調査によれば、テロの脅威に関して「アメリカがより安全になった」と感じる人はわずか49%しかいませんでした。事件後で最も低い水準です。

 

これはきっと、大半のアメリカ人にとって、ビンラディンの残像がいまだに不安をかき立てている証拠なのかもしれません・・・

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