「そして男は時計を捨てた・・・」にようこそ!

 

このブログサイトは、みなさんの知識や情報、その他のことを入手するお手伝いをするブログサイトです。

 

テ-マを設けずに、さまざまな事柄を書いていきます。ごくまれに私的なことも織り混ぜていこうと思います。

 

ぜひ、このブログを活用していただけたら、うれしく思います。ただし、このブログには画像は一切ありません。文章のみのブログになっています。

 

毎日記事を更新していきます。土、日は更新は多めとなります。

 

「そして男は時計を捨てた・・・」を今後も末長くご愛読ください😉 by ひとり編集長




歴史

それは、「未完成の生涯」 勝新太郎と市川雷蔵

かつて昭和の映画界には勝新太郎と市川雷蔵という2大スタ-がいました・・・

 

2人は同い年のライバル・・・そして共通するのが「未完成の生涯」・・・

 

勝新太郎は長唄三味線の師匠の子として生まれ、彼もその道へ進んでいきました。しかし、1954年、23歳の年に突然、映画俳優に転身するのです。

 

もともと芝居は好きでした。父が歌舞伎座で長唄三味線を弾いていたのでついていき、舞台袖から、当時の名優である6代目尾上菊五郎、15代目市村羽左衛門、初代中村吉右衛門らの芸を見て、覚えました。

 

しかし、いくら台詞を暗記し、演技を覚えても、長唄三味線の子が歌舞伎役者になれる道はなく、映画への道を選んだのでした。

 

1954年8月公開の『花の白虎隊』が勝新のデビュー作です。俳優としての訓練を経ずに、いきなりの映画出演でした。しかし、主役ではありません。

 

『花の白虎隊』の主役は、やはりこの作品が映画デビューとなった、歌舞伎から転身した市川雷蔵でした。

 

勝新と雷蔵は同年生まれ(1931年)、後に「カツライス」と呼ばれ、大映の二枚看板となりますが、デビュー時、2人にはかなり差があったのです。

 

雷蔵は16の年から歌舞伎の舞台に出ていたのに対し、勝新は歌舞伎座の舞台にはいましたが黒御簾の中で、俳優として演じたことはなかったのです。ギャラも一本あたり、雷蔵は30万円、勝新は3万円と10倍も差があったのです。

 

1954年のデビューから6年が過ぎても、勝新には代表作と呼べるものがありませんでした。大ヒット作もなく、評論家が絶賛するものもなかったのです。それでも、月一作のペースで主演していたのですから、まったく人気がないわけではなかったのです。

 

そして、1960年9月1日、勝新の転機となる『不知火検校』(森一生監督)が公開されました。

主人公の「市」は盲目に生まれ、按摩として身を立てながら、泥棒、詐欺、強請、姦淫、殺人と、ありとあらゆる悪事を働き、盲人の最高位である「検校」になる、悪漢(ピカレスク)物語です。

 

『不知火検校』は、悪人を主人公とするだけでも異質ですが、最後に悪事が露呈しても主人公は何の反省もしません。当時はそこが新しいと言えば、新しかったのです。『不知火検校』は公開されると、大ヒットし、勝新のイメージは「悪のヒーロー」に一新したのです。

 

大映の看板スターである長谷川一夫も市川雷蔵も二枚目役者だったので、徹底的な悪人は演じてはいません。勝新もその路線を歩んでいましたが、一生懸命にやっても長谷川一夫には届かないし、雷蔵にも追いつくこともできない・・・

 

そこで、二人が絶対にやらないであろう役をやってみたところ、これが見事にはまったのです。

しかし、当時の勝新は月に一本の新作を撮らなければならなかったので、『不知火検校』が封切られた頃には、明るく楽しいミュージカル風時代劇『元禄女大名』を撮り終え、さらに次の映画も決まっていました。

 

勝新はすぐに悪のヒーローものに転じたわけではなかったのです。

『不知火検校』で新境地を開いたかと思えた勝新。しかし、それからの1年間、勝新はまったく従来と同じように軽い時代劇に出続けていました。

 

そのなかには1961年6月公開の『ドドンパ酔虎伝』という安易な企画も存在しました。これを押し付けられた勝新も監督の田中徳三も気が進まず、撮影が終わるとやけ酒を飲んでいたのです。完成した映画は社内で酷評されてしまい、客足も鈍く、さんざんだったのです😢

 

その次に、ようやく後世の人々がイメージする「勝新」らしい作品、『悪名』と出会いました。監督の田中にとっても、ようやく自分の味を活かせる題材との出会い。二人にとっては屈辱を晴らす機会が巡ってきたのです。

 

『悪名』は今東光が『週刊朝日』に連載していた小説が原作で、それを読んだ勝新がこれは映画になる!と思ったのが始まりとされています。

 

昭和初期が舞台。時代劇と現代劇の中間の時代ですが、この映画が撮られた時代からは、30年ほど前ということになります。勝新が演じる朝吉は河内の百姓の伜で、「肝っ玉に毛の生えた奴」と恐れられる乱暴者です。

 

朝吉を演じるにあたり最大のネックとなったのが、言葉でした。朝吉は河内弁でしゃべりますが、勝新は江戸っ子です。彼は特訓して作品に臨みました。

 

『悪名』は9月30日に封切られ、興行成績がよかったので、会社はすぐに続編の製作を決めました。勝新初のシリーズものです。『悪名』の続編『続・悪名』はそれから3カ月後の12月に封切られます。

 

この撮影に入る前、勝新は社長の永田雅一に対し、出演料の値上げを求めました。1954年の入社時、雷蔵は30万、勝新は3万でしたが、1961年には、雷蔵が300万、勝新は250万円にまで上がっていました。

 

勝新と雷蔵の差はかなり縮まったのです。しかし、勝新としてはシリーズものに出るのだから、雷蔵と同額にして欲しかったのです。

 

「どれくらい欲しいんだ」と永田が言うと、「50万円上げてほしい」という意味で、指を開いて「5」と示しました。永田は「そんな大金、払えるか!」と一蹴したので、勝新はなんと撮影をボイコットしました。会社側はあわてて、「上げてやる・・・」と言ってきたので、勝新は撮影に戻りました。

 

撮影後、もらった額を見たら、500万円だったのです。勝新の「5」を永田は「50万プラス」ではなく、「500万円にしてくれ!」と勘違いしたのです。

 

500万になり雷蔵を追い抜いて、これで気分をよくしたところに、『座頭市物語』の企画が立ち上がったのです。

 

『座頭市物語』の原作は子母澤寛が1948年に雑誌「小説と読物」へ連載した掌編連作『ふところ手帖』の一篇で、1961年9月に単行本として刊行されました。

 

『座頭市物語』については、「子母澤寛の随筆のなかに座頭市という侠客について数行書かれたものをもとにしたオリジナル脚本」、あるいは「ほんの数ページの実話をヒントにした脚本」「『ふところ手帖』のなかの短い随筆」などという説がありますが、しかし、子母澤寛の『座頭市物語』は、文庫版にして10ページのれっきとした短篇小説です。

 

子母澤寛は「侠客の飯岡助五郎を取材するため千葉県佐原市へ訪れた際に、飯岡のエピソードのひとつとして土地の古老から聞いた盲目の座頭の市の話を元に書いた」という趣旨のことを語っていますが、『座頭市物語』の文中にはそういう経緯は記されてはいません。

 

大映は『座頭市物語』の映画化権を得て、シナリオは1962年2月に完成し、その間に監督は三隅研次と決まりました。撮影は3月初めに始まり、1カ月で完成して、4月18日に封切られました。

 

物語はこうです・・・ 坊主頭で盲目のやくざが、下総飯岡の貸元助五郎の所へ草鞋を脱いだ。名は市という。

ツボ振りでも居合い抜きでもたいした腕だった。それを見込んだ助五郎は市を客分扱いとした。

市は釣りで、病身の浪人、平手造酒と知り合い、心を通わせた。しかし平手は助五郎と対立している笹川親分の客分だった。

やがて二人は友情をいだきながらも対決し、市が勝つ。しかし虚しい勝利だった。市は、彼を慕う娘おたねを避けて去っていく・・・

 

製作時点では「座頭市」はこれ一作の単発の企画でした。しかしヒットしたことで続編製作が決まります。以後、1989年の『座頭市』まで、合計26本の劇場用映画が作られ、100本のテレビ映画も作られる、勝新の代表作となりました。

 

1960年代後半、大映の経営は悪化し、マンネリ覚悟で、観客動員が見込めるシリーズものしか作らなくなっていきます。勝新は「悪名」「座頭市」に続いて、1965年には「兵隊やくざ」もヒットして、彼自身第三のシリーズとなりました。

 

その頃、大映を勝新とともに支えた市川雷蔵は1969年に37歳の若さで亡くなります。残されてしまった勝新は2年間、ひとりで大映を支えましたが、1971年12月に大映は倒産します。

 

以後、勝新は1967年に設立していた勝プロダクションで映画を製作し、東宝が配給しました。勝新は主演するだけでなく、プロデューサーであり、そして監督もするようになったのです。その東宝との関係も1974年に終わり、以後はテレビ映画に活路を見い出していきます。

 

テレビ版『座頭市』で勝新は監督もしました。その演出は、脚本を無視してその場で即興的に作っていくというもので、ストーリーはあってないようなものになっていました。そのテレビ映画版『座頭市』も、100本作ると終わりました。

 

そこに、巨匠・黒澤明の新作『影武者』で主演しないかとのオファーがやって来ます。もちろん勝新は快諾しました。しかし、この巨匠と大スターは撮影初日に決裂してしまい、勝新は降板させられてしまうのです。

 

そしてここから、この大スターの運命は狂いはじめていきます・・・

 

1980年秋、日本テレビからのオファーで刑事もの『警視-K』を勝プロで製作し、主演しましたが、実験的・前衛的過ぎて視聴率は低迷して打ち切られてしまいます。そして、1981年には勝プロが倒産してしまうのです。

 

1980年代の勝新太郎は誰もが知っている有名人でしたが、映画俳優としては83年の『迷走地図』と、特別出演的な88年の『帝都物語』だけで終わろうとしていたのです。

 

一方、1980年代なかばからのバブル景気で、儲けすぎた企業は、映画製作に資金を出すようになっていました。勝新にも、都内にディスコやカフェバーといった最先端の店や焼肉屋を展開していた「三俱」という企業から、座頭市を撮らないかという話が来ました。

 

勝新は「座頭市」の決定版を作る意欲で、製作・脚本・監督・主演のひとり四役を担うことにしたのです。

 

1988年の初めに企画としてはスタートし、勝新はシナリオ制作に取り掛かっていました。しかし完成しません・・・

半年が過ぎると、配給する松竹から「これ以上待つことはできない!」と打ち切りを示唆してくるので、とりあえず形だけのシナリオを作り、三俱と松竹に見せ、見切り発車したのです。

 

撮りながら考えればいいという、失敗が目に見えている勝新流の撮り方をするしかなかったのです。テレビの『座頭市』でその撮り方が通用したのは、大映京都撮影所時代の仲間の映像京都のスタッフを使えたからだったが、それから概に10年が過ぎています。

 

撮影は日活撮影所を使うことになり、これまで勝と組んだことのないスタッフとの仕事となったのです。シナリオなどあってないようなもので、その場での勝新の閃きで撮っていく方法についていけるスタッフなど、日本中どこにもいませんでした。

 

そして、そんな環境だったことも背景にあり、12月26日、広島県福山市でのロケで事故が起きてしまいました。

殺陣のリハーサル中、勝新の息子でこれが映画デビューとなる奥村雄大が持っていた日本刀が、子分役の俳優・加藤の首に触れてしまったのです。助監督が真剣を渡し、それが真剣であることを伝えなかったことでの事故でした。

 

山の中だったので救急車を呼んだのでは間に合わず。病院へ運び込みましたが、すでに4000ccも出血していたのです。29日に、真剣を使ったことでの事故と発表されると、非難轟々となりました。そして、監督でもある勝新への批判が高まってしまったのです。

 

映画製作を中止すべきとの声も上がり、公開を危ぶむ見方もありました。撮影は事故の起きた立ち回りのシーンを残すだけでした。勝は俳優の家族に頭を下げ、撮影を続行して映画を完成させることが決まったのです。

 

年が明けて1989年1月7日、昭和天皇が亡くなりました。『座頭市』の公開は2月4日と決まっていましたが、まだ撮影は終わりません。11日、負傷した俳優・加藤幸雄は亡くなり、18日、すべての撮影は終わりました。徹夜で編集して、31日に完成させ、予定どおり、2月4日に『座頭市』は公開されました。

 

そして、皮肉にも事故のことが大々的に報じられたのがいい宣伝となり、封切られると、「座頭市」シリーズで最大の観客動員と配給収入となったのです。

 

昭和戦後のヒーローのひとり座頭市は平成になっても人気があったのです。松竹は第二弾の製作を決めました。しかし、松竹は配給するだけで製作費は勝新が自分で集めなければなりません。

 

勝新は『座頭市』で復活したかに見えました。
1989年には『浪人街』(黒木和雄監督)に出演し、90年2月に封切られる予定でした。そして、大きなテレビコマーシャルの仕事もやってきたのです。

 

キリンビールが「キリンラガービール」の大規模なキャンペーンをすることになり、1990年1月から一年間、ドラマ仕立てのコマーシャルフィルムを放映するという企画でした。

 

作・演出はつかこうへい氏で、ある一家の日常を描くもので、勝が父、その後妻に松坂慶子、長男に安藤輝彦、長女に手塚理美、その夫に国広富之、次女に富田靖子、その夫に藤井尚之が起用されました。このキャンペーンが始まれば、勝の姿が毎日テレビに映ることとなります。

 

この時点では、本人も周囲もまだまだこれからも映画に出るつもりでした。

1990年が明けると、勝新はハワイへ静養に出かけます。16日にハワイに着くと、空港の税関で、麻薬密輸入の容疑で逮捕されてしまったのです。

 

放映開始されたキリンビールのコマーシャルはわずか1日で打ち切りとなってしまい、『浪人街』は2月公開予定でしたが、配給する松竹は延期を決めてしまいました。そして松竹は「座頭市」から完全に手を引いてしまいました。

 

勝新太郎が掴みかけた栄光は露と消えたのです。
「もうパンツは、はかない」「総理大臣の代わりはいるが、勝新太郎の代わりはいない」などの名言・迷言が伝えられ、ワイドショーや週刊誌のネタとなり、豪放磊落(ごうほうらいらく)で破天荒な生き方をした「役者バカ」としての言動だけが伝説となって、拡散していったのです。

 

もう、俳優としての勝新を使おうという、度胸のあるプロデューサーや監督はいませんでした・・・

1990年公開の『浪人街』が最後の映画となり、1997年6月20日、勝新太郎は67年の生涯を閉じたのです。

生涯に出演した映画は193(カメオ1作含む)でした。そのうち、大映倒産の1971年までが178本で、残りの26年間で撮ったのは15本に過ぎません。テレビの『座頭市』や舞台の仕事もありました。

 

名声と知名度は高く、みんなから愛されましたが、映画俳優としては不遇だったのかもしれません。まぎれもない天才でしたが、映画黄金時代には、ひたすらプログラムピクチャーに出るしかなく、名作と出合うことはありませんでした。

 

最大の当たり役・座頭市は勝新の代名詞となりましたが、結果、それ以外の作品を生み出すことができなかったのです。

 

同世代のライバル・市川雷蔵はその短い生涯ゆえに「未完成の生涯」でしたが、多くの役を演じ、演技も評価され賞も得ました。死後も人気があり、俳優人生は完璧なまでに完成しています。

 

しかし、67歳まで生きた勝新太郎の俳優人生のほうが、「未完成の生涯」に終わってしまったのは皮肉ともいえるかもしれません・・・

 

それでも、振り返ればこういう声が聞こえてきます。

「勝ちゃ~ん、雷ちゃ~ん!ふたりともステキよ😚」

座頭市物語 [ 勝新太郎 ]

価格:1,980円
(2021/10/30 10:16時点)
感想(2件)

花の白虎隊 [ 市川雷蔵 ]

価格:2,200円
(2021/10/30 10:18時点)
感想(1件)

ABOUT ME
makoto
「そして男は時計を捨てた・・・」を運営している、ひとり編集長のmakotoです。 「そして男は時計を捨てた・・・」を活用して知識や情報を深めていきましょう!新聞を読むような感じでペラペラめくってみて下さい。 そして、自分の大好きな方に知識をシェアしていってください👍 ひとり編集長と情報の冒険をしましょう😃どうぞよろしくお願いします👍